琵琶の縁 - 1/18

 暗い夜道を、大荷物を持った女がふらふらと歩く。ついさっきまで、女は音楽家の端くれだった。
 そんな彼女が迎えた最後の演奏会。楽しいとは思えず、ただひたすらに疲れただけだった。
 一部にだけ辞める意志を伝え、ひっそりと消える。それで良かったはずなのに。
「…………」
 左肩に提げている楽器ケースの紐をぎゅっと握り締める。カタン、と中で楽器が揺れる気配に、彼女は呟いた。
「……ごめんね。」
 それと同時に涙が溢れてくる。こんな惨めな思いをするために、続けていたわけじゃないのに。
 最初はきらきらした気持ちで始めた音楽。でも今は、苦痛しか感じられない。きっとこれからもそうだ。
 二度と弾いてはやれないだろう。引退した人間が、この道に戻ってくる率は低い。
 私がもっとしっかりしていれば。真面目に練習をしていれば。仕事も趣味も、強い意志で臨んでいれば。こんなことにはならなかった。そんな後悔ばかりが押し寄せる。
「……ごめんね……」
 何て酷い持ち主だろう。楽器は持ち主を選べないのに。迎えたその日、絶対に”この子”を幸せにすると誓った。それなのに。
「もう……弾けない……」
 ついに彼女は冷えたアスファルトの上に崩れてしまった。顔を覆い、声を押し殺して泣く。深夜の道路で、その姿を見る者は誰一人いない。
 --はずだった。

  キィン

 馴染みのない高い音に、彼女はびくっと身を竦ませる。
「えっ……」
 辺りを見回すも、人の姿はない。だが、高い金属音は閑静な住宅地に微かに響いている。
 こんな音を直に聞いたのは初めてだった。近い音を記憶したのは、テレビの時代劇くらいだ。
(何かの……撮影かな……)
 深夜だというのにおかしな話だが、この時の彼女は思考が鈍っていてそんなことしか思い付かなかったのだ。
 最初は小さかった金属音が、徐々に大きくなっていく。こちらに向かって、段々と回数も増えていく。
(あっ……撮影の邪魔になっちゃう。早く退かなきゃ。)
 いそいそと立ち上がり、服の土埃を払う。楽譜や衣装の入った重い鞄を右肩に、楽器ケースを左肩に掛けた時、衝撃と共に目の前に何かが落ちてきた。
「……へっ?」
 真っ黒な何かだ。大きさは人より少し大きいくらい。
 古びた和服を纏っていて、何かを持っている。黒く鈍く光るそれは、半身の日本刀のようで--
 ……日本刀。
「ひっ……!!」
 目の前の光景に彼女は凍り付いた。折れた日本刀も、人のような姿も、黒い塵となって一瞬で爆ぜたのだ。
 特殊撮影とは思えない。塵が飛び散る風圧も感じているし、異様な臭いがする。血のような、腐った何かのような……
 その時、間近で落雷の音が響き、彼女は飛び上がって振り向いた。
 道の向こうから何かがやってくる。人のようなものが、一人、二人、三人……
「あ……あ……」
 おぞましい光景に彼女は腰を抜かしてしまう。それでも、ケースの中で跳ねた弦の音が、辛うじて彼女の正気を繋ぎ止めた。
(に、逃げなきゃ……警察……)
 頭ではそう思っていても、這いずることもままならない。そういえば腰を抜かすと腕も動かなくなると聞いた気がする。せめて携帯電話で通報しようとしても、文字通り手も足も出なかった。
(どうしよう、どうしよう……!!)
 心臓が破裂しそうで、上手く息ができない。そうこうしているうちに集団がどんどんこちらに近付いてくる。
 まるで落ち武者の幽霊だ。黒い笠や烏帽子の下で赤い目だけが光っていて、こちらを見据えながら直進してくる。
「い……いや……」
 こんなところで死にたくない。せめて”この子”の次の主を決めさせてほしい。
 今ここで死んでしまったらどうなるのだろう。この楽器は盗られてしまうのだろうか。それとも引き取り手のない遺品として処分されてしまうのだろうか。
 色々な考えがぐるぐると頭を巡るだけで、逃げるための決定打は浮かんでこなかった。
 落ち武者の幽霊はじりじりと距離を詰め、残り数メートルまで迫ってきた。
 悲鳴も上げられず、ただ怯えるだけの彼女には何もできない。
 落ち武者の一人がこちらに進み出て、黒鉄の刃を振り翳した。
「あ……」
 死んだ--そう思った次の瞬間、視界が光に包まれる。
 死とはこんなに明るいものなのか。人間は一度地獄に堕ちてから、極楽浄土に行くのではなかったか。そう思って斬撃に備えるも、何の痛みも感じない。
「…………?」
 ぎゅっと閉じていた目を、恐る恐る開いてみる。徐々に収まる光の中、白銀の刀が浮かんでいるのが見えた。
「…………」
 異様な光景。それでも、真っ先に浮かんだのは”綺麗”という感情だった。
「間に合ったか……」
 不意に、白銀から声がして彼女は目を見張る。黒鉄を受け止めた刀は宙に浮いていて、ワイヤーで吊されているようには見えなかった。
「え……」
 呆然としていると、刀が勝手に動いて黒鉄を弾き返す。”誰か”がこちらを振り向いたような気がした。
「怪我はないか?」
「あ……」
 返事をしたくても言葉が出てこない。と、押し戻された幽霊が雄叫びを上げた。
「ウオオオオオオオオオ!!」
「ひっ……!」
 彼女が震え上がると、また”誰か”が声を発した。
「実体がますます朧気になってきたか……これではまともに戦えない。」
 低く、落ち着いた声は鳥の羽根のように滑らかだ。その声音に彼女は一瞬で聞き惚れてしまった。
「すまない、お嬢さん。私の名前を呼んではくれないか?」
 ”誰か”に請われ、彼女は戸惑う。
「……名前を……?」
「そうだ。私の名前を、君に呼んで欲しい。」
「ガアアアア!!」
 そうこうしているうちに幽霊がまた斬りかかってくる。刀が再度それを受け止めた。
「最早一刻の猶予もない。それは君にもわかるな?」
「で、でも……」
 貴方の名前は?そう尋ねる前に、声がした。
 ---
(……それが、貴方の名前……)
 斬撃を弾いて、再び刀が言った。
「さあ、私の名前を呼んでくれ。」
「……っ」
 彼女は息を吸い、目一杯の声で叫んだ。
「山鳥毛!!」
 次の瞬間、凄まじい桜吹雪が巻き起こり、今度は風圧で目が開けられなくなる。
 やっと風が収まった頃、恐る恐る顔を上げた彼女の前に、一人の男が立っていた。
 白いスーツに身を包んだ、長身の男。灰白色の髪をきっちりまとめ上げ、サングラスをしている。整った身形ながらも頬や首、グローブを填めた手に細かく入るそれは……
(い、刺青……!!)
 目の前にいるのは堅気ではない。彼女は別の恐怖を覚えて戦慄した。
 一方の男は、自らの手を見て満足げに言う。
「うむ。これなら存分に戦える。」
「オオオオオオオ!!」
 そんな二人を、落ち武者の幽霊達が取り囲んでいた。ようやく四肢の感覚が戻ってきた彼女は立ち上がろうとするも、よろけて倒れそうになる。
 男が咄嗟に、彼女の体を左腕で抱きかかえた。
「大丈夫か?」
「ふぇっ、へ……は、はい……」
 見目とは裏腹の紳士的な対応に、素っ頓狂な声を上げてしまう。と、落ち武者の一体が斬りかかってきた。
「きゃああっ!」
 彼女が悲鳴を上げると、男が右手に持った太刀を振るう。燃え盛るような刃紋の刀は、落ち武者の腕を真っ二つに斬った。
「ウガアアア!!」
「お嬢さん、私から離れないように。」
 言うなり男が落ち武者の首に刃を突き立てる。何の躊躇いもない動作で急所を刺し、落ち武者の幽霊を塵にした男は、やはり只者ではない。
 殺し慣れている。日常を普通に生きてきた彼女にさえ、それは直感でわかった。
「震えているな……怖いか?」
 肩を抱かれたまま問われ、彼女は頷くことしかできない。
 悪夢のような状況下で、男の声が優しく告げる。
「心配するな。お嬢さんのことは、私が必ず守り抜く。」
 その一言で、彼女は震えが収まるのを感じた。
 突然湧いて出た落ち武者の幽霊も、間近に見える日本刀も怖い。本音を言えば、肩を抱いてきているこの男だって、とても怖いと思ったのだ。
 なのに、たった一言約束されただけで、恐怖がすうっと引いていく。自然と男に身を寄せ、返事をしていた。
「……はい。」
 それが合図だったかのように、男が動き出した。
 一人の人間を抱えたまま、力強く刀を振るう。迷いのない太刀筋で敵を次々斬り倒し、全て塵に変えていった。
 断末魔が風に乗って消え、その場に男と女だけが残される。
「もう大丈夫だ、お嬢さん。」
 呼び掛けられて彼女は安堵の息をつく。と、急に我に返って男から飛び退いた。
「あっ、ああああああ……ごっ、ごめ、ごめんなさい!!」
 半泣きで謝り、頭を下げる。一緒に傾いた楽器ケースの中から、ガコンと音がした。
 その様子に男が微笑み、首を傾げる。
「なぜ、謝る必要が?」
「だっ、だって、その……きゅ、急に抱きついたりして……あ、危ない目に遭わせてしまって……本当に、申し訳……」
 狼狽える彼女の肩を、男が優しく叩く。
「お嬢さんを戦闘に巻き込んだのは私だ。それに、離れないようにと言っただろう?」
「え……は、はい……」
 言われてみればそうだ。普通に歩いていたら斬り合いが始まり、離れるなとこの男に命じられた。
「お嬢さんは何も悪くない。むしろ、私を助けてくれたんだ。礼を言う。」
「助け……?」
 しかし、”助けた”という意味がわからない。呆然としていると、周囲の民家から窓や扉の開く音がした。
「ねえ、何?」
「雷が落ちたような……」
「変な臭いがしないか?」
 人の声に彼女はまた跳ね上がる。ここは市街地の真っ直中だ。周囲の死体が消えたとはいえ、この、ヤクザにしか見えない男は日本刀を所持している。見付かれば大騒ぎになるだろう。
「あっ、あの……!」
 男の腕を掴み、彼女は小声でまくし立てる。
「ここにいたら通報されてしまいます!私の家がすぐ近くなので、一旦避難しましょう!」
 そんな彼女に男は再度首を傾げるも、すぐに頷いて見せた。
「君に従おう。」
「あ、あと、その……」
「ん?」
 彼女は恐る恐る、男が提げている日本刀を指さす。
「それ……とても目立つので、どうにかしないと……」
 こんな風に佩刀して歩くくらいなのだから、大事なものには違いない。それをどうこうしようなどと話せば、この男も激昂してしまうのではないか。
 そんな彼女の心配を余所に、男はすんなりと日本刀を腰のベルトから外した。
「では……お願いしてもいいだろうか?」
「えっ?」
 予想外の反応に驚いていると、男は微笑んで日本刀を差し出す。
「お嬢さんの家に着くまで、隠し持っていてもらいたい。」
 ひゅっ、と喉が鳴る。男が渡そうとしているこれは、ヴィンテージものの楽器と同じく超高級品のはずだ。
 手汗をズボンで拭き、恐る恐る両手を伸ばす。震える手で受け取ったそれは、左肩に掛かっている楽器よりもずっと重く感じられた。
「手間を掛けさせてしまってすまない。今しばらく頼む。」
「は、はい……」
 返事をして顔を上げた時、そこに男の姿はなかった。
「……へ?」
 きょろきょろと辺りを見回す。だが、離れた民家から住人が出てくる以外、人影はない。
 彼女は慌てて楽器ケースと体の間に日本刀を挟み込んだ。わずかに先が出ているが、こんな暗がりでは気が付かれないだろう。
 消えた男を捜したいところだが、住人にジロジロ見られている状況では怪しまれる一方だ。彼女は何事もなかったかのように、涼しい顔をしてその場を去った。

3件のコメント

とある隠居

とても面白かったです。
映画の登場人物が出てくるの最高でした!
一つ、とても気になっているところがあります。最後のメールの相手、もしかして…ですよね!?

返信
銀扇

ありがとうございます!
どうにかして映画の登場人物(特に琴音ちゃん)と会話させたい一心で盛り込みました。

美咲のメール相手(旦那さん)、ご想像の通りでございます(*´ω`*)
実は、仮の主二人が記憶を消された後の話も頭の片隅で展開されていたりします。
刀剣男士がほぼ絡まなくなるのと、長くなってしまうので今回割愛してしまいましたが、つまりはそういうことになります。

返信
とある隠居

お返事ありがとうございます、作者様。
ああ、やはり…!それを聞いてさらにハッピーハッピーハーッピー(最近の猫ミームのアレ)になりました😂!
ふせったーも読ませて頂きました。そういう裏話大好きなのでとても興味深く拝読しました。本当に細かく設定を作り込まれていると感心致しました。
素敵な小説をありがとうございます。

返信

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