足早にアパートへ向かい、自室の鍵を開けて慎重に中へ入る。ドアを閉める前に辺りを見回すも、誰もいなかった。
あの恐ろしい黒い影も、美しい無頼漢も、ついてきた気配がない。
そっと戸を閉め、鍵とチェーンロックをかける。そこで急に力が抜けた。
「はああぁ~……」
先程のようにへたり込んでしまう。十分以上経ってやっと、立ち上がる気力が戻った。衣装の入った大きな鞄と、楽器ケースと刀を持ってのろのろ動く。
通例なら寝る前にせめて衣装だけでも洗濯機に放り込むところだが、もうそんな余力はない。狭い居間に全ての荷物を持ち込み、大きな鞄を真っ先に手放す。
次に楽器ケースをそっと床に置き、手元に残ったのは一振りの太刀。彼女はきょろきょろと辺りを見回した。
(どうしよう……刀置き、ない……)
こういうものは黒い、専用の台座に置くものだろう。だが、彼女のような一人暮らしの女性の家にそんなものはない。だからといって床に転がすのも忍びない。
困り果てた彼女の視界に、あまり使われていないギタースタンドが飛び込んできた。これは同じ団体の友人がくれたもので、大きさが丁度良いだろうと譲ってくれたのだ。結局自分の楽器置きには使わず、うっすら埃を被って鎮座している。
彼女はスタンドの埃を吹き払い、手に持った太刀をそっと立て掛ける。本来の用途とは異なるが、とりあえずは収めることができた。
「よし……と。」
そっと刀から離れ、彼女は楽器ケースを開ける。
「滑り止め……」
愛用の丸みを帯びた楽器は抱き抱えるようにして演奏するが、つるつるしていて滑り止めを敷かないと上手く固定できない。そのゴム製滑り止めを、刀と床の間に挟むつもりだったのだが……
「失礼。」
背後から男の声がして彼女は凍り付いた。恐る恐る振り返ると、さっきまで自分以外いなかったはずの部屋に、あの男がいる。サングラスに刺青の男だ。
「……っ!」
悲鳴を上げそうになった彼女の口を、男が咄嗟に押さえる。
「しっ!まだ夜更けだ。大声を上げたら、周囲に怪しまれる。」
不法侵入相手に言われ、彼女はがくがく頷くことしかできない。
「頼むから、静かにしてくれ……よし、良い子だ。」
口元からゆっくり手が離れ、彼女は大きく息をついた。そんな様子に男が申し訳なさそうに言う。
「怖がらせてすまない。私も、やむを得ない事情があってな……この時代で、あてもなく彷徨っていたんだ。」
男の声は低く、落ち着いている。この声音がどうも彼女には合っていたようで、波立った心がすっと凪いだのを感じた。
「……あの、いつ、どうやってこの部屋に入ったんです?」
彼女にそう聞かれ、男は目を瞬かせる。
「……君と一緒に入ったんだが。」
「は?」
ぽかんとする彼女に、男はくすっと笑う。
「そうか。まずは、そこから説明する必要があるな。」
そう言うと男はギタースタンドに手を伸ばす。太刀を手に取り、柄を彼女の右手側に向けて床に置いた。
「君が持ってきたこの太刀。これこそが、私の本体だ。」
「……えっ?」
彼女は目の前の太刀と、男の顔を交互に見る。何を言われたのか全くわからない。
「……あ、あの、それってどういうことですか?」
「私のこの姿は、この太刀--無銘一文字が人の形になったもの。刀剣男士、と呼ばれる姿だ。」
「とうけん、だんし……」
「まあ、その呼び名が少々気恥ずかしくもある。古臭いのでな。」
照れたようにサングラスを押し上げるその姿は、どう見ても古臭くない。彼女は首を傾げ、尋ねた。
「じゃあ、どう呼んだらいいですか?」
「最初に名乗ったとおり、”山鳥毛”という号で呼んでくれ。」
「さんちょうもう、さん……」
改めて口に出すと、男はまた小さく笑う。
「敬称など付けなくとも良いのだが……」
「いっ、いえ、そんなことできないです!」
彼女はぶんぶんと首を横に振る。いかにもその筋の男を呼び捨てにするなど、彼女には到底できない。
それに彼女の心には、畏怖だけでなく尊敬の念もあった。見事な剣術で自分を助けてくれたこの男を、馴れ馴れしく呼び捨てにするつもりはなかったのだ。
「そうか……まあ、君の好きに呼んだらいい。」
「は、はい……ありがとうございます……」
萎縮して頭を下げる彼女に、男--山鳥毛が問う。
「ところで、なぜこんな夜更けに出歩いていたんだ?女性が一人で歩くには危険な時間帯だろう。」
「あ……えっと……」
彼女はきょろきょろと辺りを見回し、鞄から飛び出た冊子を拾い上げた。
「今日……というか昨日、所属している楽団の演奏会があって……私、帰る途中だったんです。」
山鳥毛が覗き込む冊子には、開催日時の上に堂々と”定期演奏会”の文字が印刷されている。
「ほう。」
それから傍らの楽器ケースに視線を移し、もう一度冊子を見た。
「君は、この演奏会に出演していたのか。」
「はい。これで最後なんですけど。」
「……最後。」
復唱する男に彼女は頷く。
「アマチュアの団体で、みんな趣味の一環として参加しているんです。私もその一人だったんですけど……仕事が忙しくなって、参加が難しくなって……」
言葉が尻すぼみになっていく。辞めるまでの過程を思い出してしまったのだ。
元々、大学のサークル活動をきっかけに始めたこの楽器は、彼女を夢中にさせる魅力があった。サークルの借り物ではもの足りずにローンを組んで自分の楽器を購入し、更には社会人団体にまで参加して演奏に明け暮れた。
楽しかった。少なくとも、学生の間は。
卒業してからは当然、社会人団体のみの参加となる。このアパートに住むようになり、働きながらローンを返していた。
最初のうちは平気だったのだが、段々と仕事がきつくなり、自主練習の時間が削られ、合奏で遅れをとるようになってきた。
弾けないことを咎められる回数は少なかったものの、周囲の空気が冷ややかになっていったのは嫌でも感じた。皆、仕事も自主練習もしっかりした上で合奏に参加している。なのに、自分にはそれができない。
販売員の仕事も業績が伸びず、ある日職場で倒れてお払い箱となってしまった。次の就職先を探すのに集中したいと、美咲は演奏会前に責任者に申し出たのだ。その頃には、練習場へ行く途中に具合が悪くなってしまう始末だった。
沈んだ顔で黙る彼女を見て、山鳥毛は申し訳なさそうに言う。
「辛いことを思い出させてしまったようだな。すまない。」
「あっ、いえ……顔に出てしまったんですね。すみません。」
謝る山鳥毛に彼女も頭を下げる。すると、山鳥毛は苦笑いした。
「君は自分が悪くないのに、謝る癖があるようだな。」
「あっ、う……」
指摘されて言葉に詰まる。団体の友人にも同じことを言われた。
そんな彼女に山鳥毛は優しく言う。
「そんなに怯えなくとも良いのだぞ、小鳥。君を責めているわけではない。」
男の台詞を聞いて、彼女は目をぱちくりさせた。
「……あ、あの、今何て……?」
「?」
「小鳥……って……」
彼女が自分を指さすと、山鳥毛は頷いた。
「君は私の仮の主になった。一時的とはいえ、私も君の部下というわけさ。」
「いや、あの……えっ……」
百歩譲って部下を”小鳥”と呼ぶならまだわかる。それなのにこの男、自分の”仮の主”とやらを”小鳥”と呼んだのだ。
彼女は顔から火が出そうになった。恋仲の男女が使いそうな甘い呼称を、こんなにも良い声で繰り返し聞いていたら心臓がもたない。
「あっ、あの!小鳥はやめてください!」
慌てる彼女に山鳥毛は首を捻る。
「なぜだ?私は自分の巣にいる審神者のことも、小鳥と呼んでいるぞ。」
何を言っているのかよくわからないが、この恥ずかしい呼び方だけは何としてでもやめさせなくてはならない。
「だったらまだ名前で呼ばれた方がマシです!」
「そう言われても、私は君の名前を知らないのでな。」
返されて彼女はまだ自分が名乗りを上げていないことに気が付く。
「美咲です!私の名前は、長尾美咲!」
焦ってそう口走ると、急に山鳥毛の表情が真剣なものになった。
「長尾……」
「……えっ?」
その反応に美咲は戸惑う。だが、すぐに山鳥毛は穏やかな笑顔に戻った。
「美咲というのか。良い名前だ。」
美咲は自分の名前が好きではない。自分のことを容姿端麗だとは思っていないし、大人になって美しく花を咲かせるどころか気力も枯れて萎れている。名前負けしていると思っていた。
だが、山鳥毛にそう言われると、不思議と嫌な気はしない。美咲は笑顔で返した。
「お世辞でも嬉しいです。ありがとうございます。」
「お世辞ではなく、思ったことを言ったまでだ。」
そう言われて美咲は照れる。もじもじしていると、背後からバタン、という音がした。
美咲が驚いて振り向くと、さっきまで開いていた楽器ケースの蓋が閉まっていた。何かの拍子に閉じたのだろう。
「あっ……ご、ごめんね。開けっぱなしだったね。」
慌ててケースに寄る美咲。ふと、山鳥毛が思案する素振りを見せた。
「それは……」
こういった反応には美咲も慣れている。この楽器がどういうものなのか、把握している人間はほとんどいないだろう。通りすがりが興味を持って話しかけてくることも、珍しくない。
通例のように美咲は質問を投げかけた。
「山鳥毛さんは、マンドリンという楽器をご存知ですか?」
「いいや。初めて聞いた。」
首を振る山鳥毛に、美咲はケースの中身を取り出して見せた。
無花果を半分に割ったような形状のボディに、フレットの入ったネックが付けられている。全体の大きさはギターくらいだ。
「少々乱暴な言い方になりますが……マンドリンというのは、西洋の琵琶みたいなものです。」
「ほう、琵琶か。」
山鳥毛の目の色が変わる。
「懐かしいな。私の昔の主も、琵琶に興じていた。」
「山鳥毛さんの昔の主って、琵琶法師だったんですか?」
美咲の問いに山鳥毛は微かに笑う。
「いいや。その元主は、武将だ。」
「あっ……」
美咲は顔から火が出そうになった。刀を扱うのだから、琵琶法師のわけがない。
「すみません、馬鹿な質問をして……」
「いや、違うんだ。あの方も平和な時代に生きていたなら、そういう文化人にもなれたのだろうと思ってな。」
サングラスの奥の目が、どこか遠くを見つめる。遙か昔の元主に想いを馳せているのだろう。
(山鳥毛さんの元主って、どんな人だったのかな。)
美咲も物思いに耽っていると、不意に指を掠めた弦が微かな音を立てる。
はっとして手元に視線を移すと、山鳥毛もそれに気が付いて向き直った。
「話が逸れてしまったな。続きを聞かせてくれ。」
「は、はい。」
美咲は気を取り直して続ける。
「元々、琵琶もマンドリンも、リュートという楽器が元になったと言われています。リュートが欧州に渡り、それを元にしてイタリアという国がマンドリンを生み出しました。」
「そうか……私の主が愛した琵琶も、美咲の持つその”マンドリン”も、歴史を遡れば同じ楽器に辿りつくのだな。」
「あっ、いや……その、私が持っているのは、マンドリンではなくて……」
「?」
首を傾げる山鳥毛。美咲は一呼吸置いてから再開した。
「マンドリンはこれと同じ形で、大きさが三分の一くらいなんです。高い音が出て、小型で弾きやすい。そのマンドリンよりも一回り大きくて、少し音の低い楽器が”マンドラテノール”。この子はさらに大きくて低い音の出る”マンドロンチェロ”と言います。」
「ほう。」
美咲の説明を受けた山鳥毛は、興味深そうに楽器を見つめる。
「では、この楽器は刀剣でいうところの”打刀”や”太刀”なのだな。」
「え?」
「一番小さな刀剣が”短刀”。それより長い中ぶりのものが”脇差”。そう考えると、この楽器も私達と同じような位置付けになるのではないか?」
美咲は刀剣のことをよく知らないが、単語を聞いて何となく大きさはわかる。言われてみれば、楽器と刀剣の分類は似ているのかもしれない。
「そうですね。」
「ふふ……そう考えると親近感が湧いてくるな。」
楽器を眺める山鳥毛は、どこか嬉しそうだ。そんな様子に美咲も気分を良くしていた。
「触ってみますか?」
美咲の提案に、彼は少し驚いた様子で顔を上げる。
「……いいのか?」
「ええ。その方がこの子も喜ぶと思うんです。」
にこにこと楽器を差し出す美咲。山鳥毛は、遠慮しがちに手を伸ばした。
「では、失礼して--」
と、刺青の入った指が楽器に触れる直前、バァンと何かが爆ぜる音がした。
「ひっ!!」
美咲は肝を潰す。慌てて音の出所を確認すると、つい五日前に張り替えたはずのD線の弦が一本、ネックの中程で切れていた。
「な、何で……張り替えたばかりなのに……あの、お怪我はありませんか?弦でどこか切ったりしていないですか?」
動揺しながらも身を案じてくれる美咲に、山鳥毛は頷いてみせる。
「私なら大丈夫だ。」
「よかった……すみません、こんなことになってしまって……」
膝の上に載せ直して、美咲は切れた弦を回収した。「おかしいなぁ、ちゃんと引っ張って確認したのに……」とぶつぶつ言う美咲の傍らで山鳥毛は考える。
「ふむ……どうやら私は、嫌われているようだ。」
「え?」
疑問符を上げる美咲に、山鳥毛は目で示す。
愛用のマンドロンチェロと山鳥毛を交互に見やり、美咲はますます戸惑った。
「え、えーっと……そんなこと、ないと思うんですが……」
と言った矢先、今度はA線の片方が弾け飛ぶ。
「ひぃっ!!」
いよいよ偶然とは思えなくなってきた。こんなことは初めてだ。”物”というよりは”人”のように大事に扱ってきた楽器。それがまるで意志を持って振る舞っているかのように、次々と不可解なことが起きている。
慌てて弦を回収する美咲。山鳥毛は楽器に向かって言った。
「私のことが気に食わないのはわかるが、君の主まで脅かす必要はないだろう。こんなに怯えているんだ、やめてやってはくれないか?」
これには何の反応もない。しんと静まり返る部屋で、美咲はおずおずと切り出した。
「ごめんなさい、余計な提案をしてしまって……」
「構わないさ。むしろ私の方が美咲の元に転がり込んでいるんだ。嫌われても仕方がない。」
山鳥毛の言葉に美咲は眉を下げた。大事な楽器をそっとケースにしまい、心の中で呟く。
(どうしてそんな意地悪するの?山鳥毛さんは悪い人じゃないのに……)
その様子に山鳥毛は自嘲にも見える笑みを浮かべた。
「楽器から見れば、私達のような武器は野蛮で汚らわしい存在だろう。音色で人を楽しませる楽器とは違って、刀剣は人を殺すための道具なのだから。」
「……でも。」
美咲は呟く。
「人を守ってきた武器でも、あるんですよね。だって、戦場で貴方に守られてきた人だっているんですから。人を殺す武器は同時に、人を守るための武器でもあるはずです。」
その言葉に、山鳥毛が目を細める。
「……そう言ってくれるのか。美咲は優しいな。」
「そんな、普通ですよ。」
急に誉められて美咲は慌てる。優しい人というのは、あの親友のように朗らかで温かい人のことを言うのだろう。自分は程遠い。
美咲の反応に山鳥毛は首を振った。
「いいや。私達のような”物”を、君は大切に扱ってくれている。十分優しい人だ。」
「…………」
そんなことを言われたのは初めてだ。過剰なまでに物を大事にして、何かと物に話しかける彼女を、周囲は変人扱いしてきた。誉められたことなど今まで一度もなかったのだ。
「……ありがとう、ございます……」
山鳥毛の言葉でやっと個性を認められたような気がしたのだが、嬉しいやら恥ずかしいやらで蚊の鳴くような声しか出ない。それでも、男は柔らかい笑みを浮かべたままだった。
「さて、君の楽器は私を嫌っているようだが……君の優しさに甘えて、しばらくここに滞在させてもらいたい。いいだろうか。」
そんな彼の唐突な頼みを、美咲は断る気になれなかった。
刺青も入っているし刀も持っている。どう見ても堅気ではない。だが、見た目の恐ろしさに反して穏やかに接してくれる。
そして何より、美咲は頭の片隅で思っていた。
(……これは夢だ。)
例年通り疲れて帰ってきて、妙な夢を見ているに違いない。起きたらきっと、一人きりのアパートの一室に戻っているはずだ。
だからこの男の頼みを聞き入れようと頷いた。
「いいですよ。」
途端に、どっと眠気が押し寄せてくる。美咲の体がぐらりと揺れると、先程のように山鳥毛が間髪入れず抱き抱えた。
「おっと……大丈夫か?」
「ふぇ……ふぁい……」
朦朧として呂律が回らない。山鳥毛は優しく微笑んで言った。
「無理が祟ったのだろう。夜も遅い。今日はもう寝なさい。」
「……ふぁい……」
着替えも後片付けも風呂も済んでいないが、とにかく眠くてしょうがない。美咲は言われるまま、目を閉じた。
とても面白かったです。
映画の登場人物が出てくるの最高でした!
一つ、とても気になっているところがあります。最後のメールの相手、もしかして…ですよね!?
ありがとうございます!
どうにかして映画の登場人物(特に琴音ちゃん)と会話させたい一心で盛り込みました。
美咲のメール相手(旦那さん)、ご想像の通りでございます(*´ω`*)
実は、仮の主二人が記憶を消された後の話も頭の片隅で展開されていたりします。
刀剣男士がほぼ絡まなくなるのと、長くなってしまうので今回割愛してしまいましたが、つまりはそういうことになります。
お返事ありがとうございます、作者様。
ああ、やはり…!それを聞いてさらにハッピーハッピーハーッピー(最近の猫ミームのアレ)になりました😂!
ふせったーも読ませて頂きました。そういう裏話大好きなのでとても興味深く拝読しました。本当に細かく設定を作り込まれていると感心致しました。
素敵な小説をありがとうございます。