一瞬の出来事で、美咲は何を見たのかはっきりと覚えていない。
ただ、山鳥毛が名前を呼んだのと、突き飛ばされたことだけは、わかっている。
床に転がった美咲が見上げると、エレベーターのドアから伸びる長い柄と、はやにえのようにされた山鳥毛の姿があった。
「あ……ああ……」
信じたくない光景に叫び声すら出せない。ごぼっという嫌な音と共に、山鳥毛の口から血が溢れた。
「鈍(なまくら)風情が、手こずらせおって。」
エレベーターの中から聞こえてきたのは、地獄の底から響くような声だ。ぬっと姿を現したのは、槍を携えた大柄な時間遡行軍だった。ざんばら髪の間から覗く赤い目が、美咲の方を見る。
「まあいい。あとはこの女を始末するだけだ。」
乱暴に槍が振り払われ、山鳥毛が床に叩き付けられる。そこでやっと、美咲の体に力が入った。
「あ……うあああああああああ!!」
恐怖よりも怒りが上回って、美咲は近くに転がる植木鉢を投げ付けた。次いで消火器を構え、時間遡行軍に向かって噴射する。
「ぐっ……」
消火剤が出きるまでは止まらない。敵が怯んだ隙に、美咲は山鳥毛に駆け寄った。
「山鳥毛さん!山鳥毛さん!!」
白い煙の中でもわかるくらい、山鳥毛は血塗れになっていた。苦しそうに息をしながら、それでも美咲に言う。
「美咲……私に構わず、逃げなさい……」
「置いて行けない!!」
そう叫び、重傷の山鳥毛を必死になって担ごうとする美咲。だが、武装した成人男性を、大して力のない女性が持ち上げるのは無理があった。
「駄目だ……私のことは、捨て置け……」
「嫌!!」
その時、美咲は出会った時のことを思い出した。山鳥毛の本体が太刀だというのなら、それを持って行けばいいのではないか。
「山鳥毛さん、本体に戻れますよね!?そしたら……」
「この状態では……できない……」
山鳥毛の視線を追って、美咲は愕然とした。あの美しい刀の中腹に、ヒビが入っている。何か力を加えようものなら、すぐに折れてしまいそうだった。
「鞘に、戻せないんだ……すまない……」
「な、んで……何で謝るの……」
どうにもできない状況に、美咲の目から涙が溢れる。山鳥毛を連れて逃げることもできず、置いてこの場を去ることもできない。
そんな中、消火器が止まって時間遡行軍が姿を現した。
「おのれ、小癪な真似を!」
時間遡行軍が槍を投擲する構えになる。と、美咲の横に寝かされていた楽器ケースが、槍に向かって飛んでいった。
「何!?」
突然の出来事に戸惑う時間遡行軍。楽器ケースが槍の根本を叩くと同時に、中から再度楽器が飛び出してくる。
瞬時にD線が外れ、時間遡行軍の首に巻き付いた。
「ぐっ……」
締め上げられて動けなくなっている隙に、最後に残ったC線のペグが右回転していく。
それを見た美咲は、悲鳴を上げた。
「だめ……駄目!そんなことしたら駒が!!」
初めて弦を張り替える時に、教えられたのだ。全ての弦を外してから新しい弦に張り替えるような真似をしてはいけない。弦で押さえているだけで駒は固定されていない。駒が外れたら命取りだから、最低でも二本以上の弦で押さえていなくてはならない--と。
美咲の叫びに、一瞬ペグが止まる。
と、誰かの声が、美咲の脳内に響いた。
「大丈夫。駒が外れたくらいで、壊れたりしない。」
「……え?」
呆然とする美咲に、誰かが言う。
「楽器は駒が外れても直せるけど、刀は折れたら戻らない。だから……美咲。」
”誰か”が、こちらを振り向いて微笑んだ気がした。
「山鳥毛を、守ってやって。」
次の瞬間、ペグが高速回転して最後の弦が外れた。一番太いC線が、槍の穂先にがっちりと巻き付く。楽器のホール下にあった駒が、からんと音を立てて床に落ちた。
「お、のれ……琵琶擬きの分際で……」
ぎりぎりと穂先を締め上げるC線が、刃に擦れて細っていく。同時に、槍の穂にヒビが入り始めた。
「何を……刀剣が、楽器如きに負けるなど……!」
ビキビキ、キリキリと、今まで聞いたことのない金属音がエレベーターホールに響き渡る。美咲は願った。
(お願い……勝って!)
次の瞬間、バキンという音と共に穂先が砕け、弦が散り散りになった。
「ぐああああああああ!!」
槍の時間遡行軍が、黒い灰となって消える。呆然とする美咲の耳に、山鳥毛の苦しそうな咳が聞こえた。
「山鳥毛さん!!」
抱き起こすと、山鳥毛が力なく微笑む。
「君の楽器は、凄いな……美しいだけでなく、主を守れるとは……」
美咲は泣きながら山鳥毛の冷えた手を握る。
「あの子もだけど、山鳥毛さんだって凄いじゃないですか。戦って主を守って、今までずっと……」
そう言って山鳥毛の目を見た瞬間、美咲は言葉を失った。
色が、ない。サングラスの奥の紅も、仄かな青を含んだ刺青も、灰白色の髪も、全て色を失っていた。
「……どうやら……ここまでの、ようだ……」
「則宗!則宗、しっかりしろ!!」
やっとビル前の一陣を排除できたというところで、則宗は地に倒れ伏した。誠が駆け寄り、上体を起こす。
「嗚呼……何て情けない顔だ……」
そう言って誠の頬を撫でる手に、ノイズが走る。誠は置いて行かれた子供のように取り乱していた。
「よせ……おい、しっかりしろ!!死ぬな!!」
「死、か……僕達にとっての”死”というのは、何だろうな……」
他人事のように呟く則宗。誠の声が、籠もる。
「カミサマのくせに、こんなとこで終わんのかよ……ふざけんな……」
「僕達は”神”ではないからなぁ……だが……」
則宗は渋谷の空を仰いだ。ビルに切り取られた、浅黄色。
「もう少し、長く……見守りたかったな……」
同じものを写しているはずの目に、色はなかった。
……嫌だ。
嫌だ。こんなところで終わらせるなんて、嫌だ。
「……お願い。」
太刀が握られた右手を両手で包み、美咲は願う。
「神様お願い、いるなら私の願いを聞いて。どうか、どうか……」
明日の明日。
千年先の明日まで。
「物が語る故に物語というのなら、”語るもの”のない世界はどうなる。」
怒りと悲しみの混じった声で、誠が呟く。
「俺達の歴史だって、今までの誰かの物語だって……」
必死に生きた”今日”が報われなくても。
”念い”を終わらせなければ、歴史は続く。
それは、今を生きる自分達が、よく知っている。
「この美しい刀に会える未来を、私にください。この刀に会えない未来なんて、明日なんて、私はいらない。」
「物が残るから”念い”も残るんだろ……誰かが”念い”を受け取ってくれるから、残れるんだろうが!」
二人が”念い”を口にした、その時だった。
桜吹雪が、それぞれのいる場所に巻き起こる。
「!?」
風圧に目も開けられず、それでも手元の柄だけはしっかりと握り締めて身を竦める。
その花弁がヒビの入った刀を包み、溶け込むように消えた時には元の容に戻っていた。
「……美咲。」
あの、優しく落ち着いた声がする。
はっと顔を上げると、穏やかな笑顔でこちらを見つめる山鳥毛がいた。
血も、傷も、太刀に入ったヒビもない。美しい姿の山鳥毛は、美咲の頬を撫でて言った。
「願ってくれて、ありがとう。」
「あ……」
美咲の目から、今度は安堵の涙が零れ落ちる。
それを指先で拭うと、山鳥毛は力強く言った。
「私も、君の”念い”に応えなくてはならないな。」
「……おい、おい、まこっちゃん。」
ぺしぺしと木のようなもので頬を叩かれる感覚に、誠は顔を上げる。
目の前の光景に呆然としていると、呆れた声が聞こえてきた。
「なーにだらしない顔してるんだ。まだ終わっちゃいないぞ。」
傷一つない則宗の視線の先には、増援の時間遡行軍。
飛び上がって拳銃を構える誠に、則宗は微笑んだ。
「行くぞ、やることは決まり切ってるからな。」
とても面白かったです。
映画の登場人物が出てくるの最高でした!
一つ、とても気になっているところがあります。最後のメールの相手、もしかして…ですよね!?
ありがとうございます!
どうにかして映画の登場人物(特に琴音ちゃん)と会話させたい一心で盛り込みました。
美咲のメール相手(旦那さん)、ご想像の通りでございます(*´ω`*)
実は、仮の主二人が記憶を消された後の話も頭の片隅で展開されていたりします。
刀剣男士がほぼ絡まなくなるのと、長くなってしまうので今回割愛してしまいましたが、つまりはそういうことになります。
お返事ありがとうございます、作者様。
ああ、やはり…!それを聞いてさらにハッピーハッピーハーッピー(最近の猫ミームのアレ)になりました😂!
ふせったーも読ませて頂きました。そういう裏話大好きなのでとても興味深く拝読しました。本当に細かく設定を作り込まれていると感心致しました。
素敵な小説をありがとうございます。