あーもうマジやってらんない。先日27歳を迎えたばかりの里見満はスーツのスカートの裾を気にしながら胸の内で呟いた。
カツカツとヒールがアスファルトに音を立てる。午後のゆったりした空気を切り裂くように満は勤務先に向かってひたすら歩いた。
オフィスビルが立ち並ぶ界隈の人通りはまばらだが皆一様にスーツを着ていていそがしそうに早足で歩いている。
新しい部署に異動して約半年。いまだ新しい部署に馴染めていない。
生来人見知りで不愛想で無口というのもあるけれど部内での些細な嫌がらせが満を疲弊させさらに無表情にさせていった。
仕事に影響が出るようなことでは無い分相談もしづらくせいぜい彼氏に愚痴をこぼすくらいだった。
その彼氏も『最近おまえ愚痴ばっかりだしちょっと距離置きたい』と言われてひと月ほど連絡をとっていない。
このままフェードアウトかなぁ、と満はぼんやり感じている。
踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、とはこの事だろう。
「あ、また糸出てる」
スカートの裾からはほつれた糸がのぞいている。
所用で会社をでてそのまま休憩に入った。
ランチを食べているときにスカートの裾がほつれているのに気づいたが外出先ではどうにもできなかった。
部内の嫌がらせの一つ一つは本当にささやかだ。お土産を貰えなかった、有志の飲み会の声がかからなかった、業務連絡以外の話をしてくれない。
本当に一つ一つはどうでもいいことなのだ。業務に支障が出るようなことは特にない。
漫画やドラマで見るようなロッカーにいたずらだとか書類を隠されるとか会議の時間変更を知らせてくれないとかそういうシャレにならないことはない。
だからこそ、純粋に受け入れられてないのだな、と感じてならない。
悪意や敵意すら持ってくれない。部署内で『里見満』という『個人』はいない。ただ『社員』がいるだけだ。
異動願は出しているけれど異動して一年もたっていないのに受理されるとは思えない。
だから会社に戻りたくないな、考えてしまう。多少遅れたところで誰も気には留めないだろう。
まるで子供のような拗ねた気持ちをおさえきれずに、満はくるりと向きを変えて目前の会社に背を向けた。
そこから一瞬意識が途絶えた。黒い空白の時が流れたのだと気づいたのは意識を取り戻した後だ。
「……え?」
あれ?私今何してたっけ?ときょろきょろと辺りを見渡す。周囲の人たちも満と同じようなきょとんとした表情をしていた。
その時だった。
ぶわり、とどこからともなく強い風が吹いて辺り一面が桜色に染まった。
いや、実際桜吹雪が満の視界を覆いつくし、平行感覚を失った満は思わず尻もちをついた。
「……お、無事に着いたみてーだな!」
桜吹雪が雪のように消えた後、そこに現れたのは一人の青年だった。
センター分けの黒い短髪、すらりとした手足、にこりと笑う整った顔立ち。
「い、イケメンが過ぎる」
状況にそぐわない呟きを思わずもらす。あまりにも現実味のない存在だ。
しかもその顔立ちに気をとられていたがよくよく見ると変わったいで立ちをしている。
緑のジャケットに黒いズボンはともかく肩には甲冑のようなものがついているし赤いひらひらした長い布が風になびいている。
そしてなにより目を引くのが腰の刀だ。
「じゅ、銃刀法違反……?」
まさか本物ではないだろうと思う、けれど。その刀から受ける印象はとても鋭くてニセモノには思えない。
「お、あんただな」
銃刀法違反のイケメンが満に近づいて手を差し伸べる。
困惑する満にイケメンは微笑む。
「服汚れっぞ。とりあえず立ってくれ」
黒いグローブに覆われた手を取るとよっと軽く引き上げられた。
「あの……」
「悪ぃ、説明してる暇ねーんだ。ちっとあんたにやって欲しいことがあんだけどよ」
「やってほしいこと?」
イケメンが満を真正面から見つめてくる。意味がよくわからなくて鸚鵡返しをしながらその瞳の色に気づいた。
血のように赤い瞳。こんな色は人には出せない。カラコンでもない。実際の瞳の色だ。
「俺の名を。ブゼンゴウって呼んでみてくれねーか?」
「は?」
何処までも意味が分からない。名前なのそれ?とか呼んだらどうなるの?とか疑問が渦巻く。
美形すぎるこの青年の赤い瞳が怖い。
「俺の主の力だけじゃ足りねーんだ。あんたにも名前を呼んでもらわないと……」
不意に言葉を切って青年が背後を振り返る。キャーーーっという悲鳴が同時だった。
「きやがったか!悪い、少し下がっててくれ」
青年が刀を抜く。きらりと緩い陽射しを反射した。
青年の先には黒い人のようなモノがあった。人の形をしているけれど明らかに人ではないモノ。
それが3体不意に現れたのだ。
「なにあれ。ゾンビ、とかじゃないよね……」
逃げ惑う人々の間を縫って青年が黒いモノに刀を向けた。その背中が不意にブレる。
キィン!と高い金属音が響く。青年が化け物の刀を弾き、鋭くその腹部を一刀した。
返す刀で2体目を斬りつけその勢いで3体目を刺した。
流れるような風のような早さだった。
逃げ惑う人の中、満だけはその場に立ち尽くし青年の戦う姿を見守っていた。そうしなければいけないような、そんな気がして。
あるいは目の前の出来事を全く理解できてなくてただ呆然としているだけなのかもしれない。
「とりあえず、よしっと」
ブン、と一度刀を振って鞘に納める。一連の動作が滑らかで、手慣れているのがよくわかった。
こちらに戻ってくる青年に一歩後退ってしまう。コスプレだの何かのイベントだの現実的な理屈をつけようとする段階は既に超えてしまっていた。
さきほどの化け物と同時にこの青年も人ではない。それを感じ取れてしまう。
「なあ、悪いけどさっき言った俺の名前呼んでくれねーか?」
そんなに人通りの多い場所ではないけれど、今不自然に人の気配がしない。その中で青年が満に呼びかける。
「……呼ばないとどうなるの?」
怖いのにそれを打ち消したくてそんな言葉を口にしていた。
「こうなる」
青年がグローブをした手をつきだす。それがふいに揺らいでぼやける。
「な、なに?!」
「この時代の俺は行方不明で所在がはっきりしねーんだ。顕現できねーわけじゃねぇんだが、揺らぎがでる」
「……意味わかんない」
ま、わっかんねーだろうな、呟いて青年は小さく笑う。
自分の存在を確かめるように握ったり開いたりする手は時折薄くなったりぼやけたりして満は目を疑う。
「頼むよ、時間ねーんだ。さっきのアレ見ただろ?」
「あの、化け物?」
「そ。俺はあいつら倒しに来たんだけど、うちの主ちっと霊力低めだし、この時代に俺行方不明だしでさ」
説明は満には全くわからない。先ほども言っていたこの時代に行方不明とはどういうことだろうか?
首をひねる満に青年は苦笑して、口を開く。
「ぶぜんごう、って言ってみてくれよ」
「ぶ、ぶぜん、ご、う……?」
「もっかい、豊前江って」
言われて満の頭に漢字がふっと浮かんだ。
豊前、九州の方の地名だった気がする。ごう、は『江』だ。
「豊前江……」
「サンキュ!」
満が口にした途端ぐっと青年豊前江の輪郭がはっきりした。
何がどう、と具体的にはわからないけれど、まるで二次元が三次元に立体化したような印象を受けた。
ぱちぱちとまばたきをする。
「よし、これでいける!」
豊前江が力強く拳を握る。
「あんがとな!主のご先祖様!」
「……は?」
「じゃあな!あ、さっきのやつらはもうこっちには来ないから安心していいぜ」
パチンと豊前江が指を鳴らす。すると一気に街のざわめきが戻り豊前江は消え、満は白昼夢でも見ていたのかと思った。
けれどスカートの裾はほつれたままだし尻もちをついたときの砂埃も痛みもまだ残っている。
「なんだったの……?」
突然現れたイケメンが突然現れた化け物を倒して名前を呼べと言って不意に消えた。
それと同じようにあの戻りが遅れたところで誰も気にしない、という拗ねた気持ちが消えてなくなっていた。
「……所在不明、か」
今の私もそんなもん、かも。部署内にいてもいるということを認識してくれていない。
だけど、認識してくれとこちらから働きかけてもいなかった。
挨拶と業務連絡以外話さないのはこちらも同じ。
彼氏にだって距離を置きたいといったのは向こうだからとこちらから連絡はしていなかった。
満は背を向けていた会社に向き直る。何故だか今は今度こそ新しい部署になじむ努力をしようと素直に思えた。
17
2023.4