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人形(ヒトガタ) -長義と各務の事後処理案件03- / くれは

 延々と続く坂道・・・。
 いや、舗装はされているがこれは、山道と言っていい。
 そんな急斜面を彼は、息を荒くしつつ必死に登っていた。
 懸命に足を踏み出し、先を行く青年に追いつこうとするが、急斜面を平地のように平然と進む彼との距離はどんどん開いて行く。
 10月初旬はまだ夏の気配を残し、澄み渡った空から容赦なく降り注ぐ陽光に炙られて、スーツの下は汗だくになっていた。
 あと数歩も行けば、膝が笑う。
 そのタイミングで、先を行く青年が訝しげに振り返った。
 「なんだ君は、どうしてそんなに遅れている?」
 本気で理解できない、という顔をした彼は今、白銀の髪を黒いキャップで覆い、深い湖の底を思わせる青い瞳を、太い黒縁の眼鏡で遮っている。
 淡い色のジーンズに濃紺のシャツ。
 上に羽織ったオフホワイトのパーカーもすべてファストファッションのもので、完全に『普通』を装ったと思ったのに・・・。
 生来の足の長さと、細身ながらしっかりと鍛えられた体幹がもたらすスタイルのよさが衆目を集めてしまう。
 参拝者でにぎわう麓の社では、彼の本体を楽器ケースに入れていたせいか、芸能人と間違えられて危うく囲まれるところだった。
 が、上之社へ向かう道は人通りも少なく、近隣住民とすれ違う程度だ。
 「おい、聞いているのか、各務?」
 すっかり息が上がってしまい、答えられない各務に眉根を寄せ、彼、山姥切長義は数歩を降りて来た。
 「す・・・みません・・・坂が・・・急・・・すぎて・・・・・・」
 ぜいぜいと苦しげな各務に、長義はますます不思議そうな顔をする。
 「この程度で急なのか?
 もしかして君は・・・胸の病でも抱えていたのか?」
 はっとして、途端に気づかわしげな顔になった彼を、思わず拝みそうになった。
 神様に心配してもらえるとはありがたいことだと感謝しつつ、各務は首を振る。
 「いえ・・・単なる運動不足です・・・・・・」
 長義を待たせるのも悪い気がして、歩を進めた各務を、近隣住民らしい高齢女性がすいすいと追い越していった。
 「あの女人は君よりご高齢のようだが?」
 「すみません、坂道に慣れておりませんで・・・・・・」
 さすがに心折れそうになって地面を見つめていると、突然視界が反転する。
 「はいっ?!」
 「相手を待たせているんだ。
 自分で歩けないなら運んでやる」
 軽々と肩に担がれてしまい、息が止まるほどに驚いた。
 「そんな!!
 そんな滅相もない!!
 自分で!
 自分で歩きますから!!」
 大慌てで言うと、『そうか』とあっさり下ろされる。
 「まぁ、場所はわかっているからな。
 遅れても合流はできるだろう」
 「えぇ・・・それはもちろん・・・っ?!」
 顔をあげた時には既に、スニーカーの靴裏しか見えない位置にまで登ってしまった長義を、各務は慌てて追いかけた。
 
 
 石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)の上之社(かみのしゃ)は、生駒山の大阪側中腹にある。
 そこへ至る途中のカフェで、彼は待ってくれていた。
 長義はキャップと眼鏡を取ると、丁寧に会釈する。
 「お待たせしました、光忠さん」
 「やぁ、長義くん。
 いらっしゃい」
 穏やかに笑う彼―――― 燭台切光忠は、カウンターの向こうから手を差し伸べた。
 「好きなところに座って。
 なに飲む?」
 コーヒーの良い香りが漂う店内には、彼らの他には誰もいない。
 やや遅れて、各務が『CLOSE』の札が下がったドアを開けて入って来た。
 「は・・・はじめまして、私、内閣官房国家安全保障局の各務と申します。
 この度はご協力・・・」
 「あぁ、違うよ各務さん。
 僕は長義くん風に言うと不法滞在だから、大げさにしないで」
 名刺を差し出す各務に光忠が冗談めかして笑と、長義が苦笑する。
 「大げさになる前に帰っていただきたいのですが」
 「それはわかっているんだけどねぇ・・・・・・」
 カウンターにもたれ、下から覗き込むように見つめて来る光忠に、長義は頬を染めた。
 「僕の仮の主になってくれたここのマスターがさ、時間遡行軍に襲われた時にぎっくり腰になっちゃって。
 しばらく動けないって言われちゃ、お礼にお手伝いしなきゃ、って思うでしょ?」
 「そんなことを考えるのは、光忠さんくらいですよ」
 困り顔ではあるが、どこか嬉しそうな長義の様子を、各務はそっと窺う。
 髭切達へは厳しく帰還を要請していた彼が、光忠に対しては至極柔らかな雰囲気であることが不思議だった。
 そこへ、みたびドアが開く。
 店内に光が差した気がして振り返った各務は、入って来た長身の青年に目を細めた。
 若草色の和服をさらりと着流し、穏やかな笑みを浮かべているにもかかわらず、近づきがたい神々しさがある。
 「いらっしゃい、石切丸さん」
 光忠が呼んだ名に、各務は思わず猫背を伸ばした。
 「御神体の・・・!」
 自身の引き攣った声で我に返り、最敬礼して名刺を差し出す。
 「はじめまして、私、内閣官房国家安全保障局の各務と申します・・・!」
 「あぁ、この度は面倒をかけてしまって、すまないね」
 参拝客で賑わう神社の御神体は、風呂敷で包んだ桐箱をテーブルに置くと、気さくに言って名刺を受け取った。
 「あぁ・・・もしかしてこれは、私が受け取るものではないのかな。
 早苗さん、君が持っておいで」
 しゃがみ込んだ石切丸の傍に、ほんの小さな少女がいたことに、ようやく気付いた。
 小学校の低学年だろうか、長い髪を二つに結んだ少女は、年の割にしっかりした面持ちで頷き、両手で名刺を受け取った。
 「みんな、テーブル使って。
 早苗ちゃん、僕の特製デザートを試してもらえると嬉しいんだけど?」
 カウンターの向こうから魅惑の笑みを向けられて、耳まで赤くした少女は無言で頷く。
 「みんなもどう?
 バタフライピーを使ったグラデーションのソーダと、パンナコッタの上に紫陽花色のゼリーを乗せたデザートだよ。
 ここに歌仙くんがいたら季節違いだって怒るんだろうけど、すごくきれいだよ?」
 「いただきます」
 すかさず言った長義が、続けて『手伝いましょうか』と申し出たことに、各務は目をむいた。
 出会った当初から常に高慢なほどに誇り高く、天下五剣へ対しても対等に接していた彼と、本当に同じ刀だろうかと疑うほどに、今の彼の雰囲気は柔らかだ。
 その上、
 「いいよ、座ってて」
 と光忠に言われると、少し残念そうに頷いたのも意外だった。
 「あの・・・山姥切さま、光忠様とは・・・・・・」
 言いかけて、各務は慌てて首を振る。
 差し出がましいことを、と謝罪する前に、長義はどこか誇らしげに微笑む。
 「俺と流れは違うが、同じ長船の祖だ。
 ・・・・・・かっこいいだろう?」
 囁くような口調がまた誇らしげで、各務は何度も頷いた。
 長義が誇り高き百合なら、光忠は春の訪れを告げる梅の風情か。
 高貴であり、華やか。
 多くの戦国武将に愛された理由が、わかる気がした。
 「さて、貴殿の本丸についてだが・・・」
 席に着くや、早々に話を始めた長義に慌てて、各務も席に着く。
 「酷く厄介なことと聞いている」
 「あぁ・・・。
 私も、どうしていいかわからなくてね」
 そう言って石切丸は、テーブルに置いた桐箱をそっと撫でた。
 「小狐丸さん・・・。
 本体は私と同じ、この麓の神社にあって、問題なく顕現できたはずなんだ。
 しかし仮の主が・・・・・・」
 ふぅ、と、重くため息をつく。
 「とても彼の意に添うものではなくてね。
 彼が拒んでいるせいで、顕現もできず、本丸に帰ることもできず、現世をさ迷っているんだ」
 「小狐丸さんの意に反する仮の主?
 どんな極悪人なの、それ?」
 ドリンクとデザートを運んできた光忠に、早苗は顔を赤くして石切丸の影に隠れてしまった。
 「あぁ、突然入って来てごめんね」
 カウンターに隠れていた全身を現した彼は、黒のパンツに白いシャツ、ブラウンのロングエプロンというシンプルないでたちながら、長い脚と均整の取れたスタイル、折った袖から覗く筋肉質な腕など、男の各務でも見惚れてしまうほど格好いい。
 幼い早苗が、真っ赤になって言葉を失うのも無理はなかった。
 「どう、僕が作ったデザートは?
 きれいでしょ?」
 テーブルに並べられた青と紫のグラデーションに、早苗は無言で頷く。
 「早苗さんは私には普通なのに、光忠さんには恥ずかしがるんだねぇ」
 「だって・・・!」
 思わず声を上げた少女は、また恥ずかしげに俯いた。
 「いしきりさんは・・・いつも神社におるし・・・・・・」
 「へぇ・・・。
 君は神が見えるのか」
 巫女の家系か、と感心する長義にも、顔を赤くしながら早苗は首を振る。
 「わ・・・わたしだけやない・・・。
 いしきりさんは、みんなと遊んでくれる・・・」
 「境内は近所の子供の遊び場だからね。
 私の主になってくれる人、って呼んだら、みんな手を挙げてくれたね」
 「じゃんけんでかった!」
 得意げに言う早苗の頭を、石切丸は優しく撫でてやった。
 「小狐丸さんも、こんな子供達なら・・・いや、極悪人でも人であったなら、仮の主として認めたのだろうけど・・・」
 「はっきりしないな。
 なんなんだ」
 少し苛立った口調になった長義は、はっとして咳払いする。
 「失礼した。
 詳細を頼む」
 傍に光忠がいるだけでこの違いか、と驚く各務には、気まずげに鼻を鳴らした。
 
 
 「―――― 小狐丸さんは、ヒトガタ・・・人形を仮の主とされてしまったんだ」
 「そんなことがありうるのか?」
 信じがたい、と言う長義に、石切丸も頷く。
 「私だって初めて聞いた時には、なにを馬鹿げたことを、って思ったよ。
 でも事実、彼は顕現できず、本丸に帰ることもできずにいる。
 おかげでとても困っているんだよ・・・三日月さんを御せるのは、彼しかいないのだから」
 真顔で言った石切丸に、光忠も苦笑して頷いた。
 「お目付け役なしの三日月さんにふらふらされるの、怖いよねぇ」
 「私がいない間は第一刀の加州さんが監視して、岩融さんが力づくで引き留めてくれているのだけど、三日月さんときたら鬼の居ぬ間にって、隙あらば本丸を抜け出そうとしてもう・・・」
 「首に鈴でもつけておいたらどうかな」
 鼻を鳴らした長義は、またはっとして咳払いする。
 「・・・人形が主に選ばれるなど初めて聞いた事案だが、それは・・・たとえば、怪談に出て来るようなものなのか?」
 9月の事件も、人の『念(おも)い』を奪い、既に亡くなった少年の心を取り戻そうとしたことが発端だった。
 琴音が見たという少年・・・伊吹の弟である健の核も古いゴムボールであったことだし、ならば、より人の形に近い人形ならありうるのかと、考えを巡らせる長義にまた、石切丸は困り顔を傾げる。
 「そういう・・・怪談じみたものとは違うんじゃないかな。
 ねぇ、早苗さん。
 君の方が詳しいよね?」
 問われて、紫陽花色のデザートに夢中になっていた早苗は、こくりと頷いた。
 「学校の社会科見学で行った工場で見せてもらったんや。
 マミちゃんはわたしと同じくらいの大きさやけど、AIがとーさいされたロボットで、すごいたくさんべんきょうしてるから、すごい頭がいいんやって。
 じゃんけんできるし、おしゃべりできる。
 そんで・・・意地悪したら泣いちゃう」
 「人形が?」
 苦笑する光忠に、早苗はまた、こくりと頷く。
 と、
 「早苗さんが社会科見学に行かれたのは、おそらくこの工場ですね。
 人の感情を再現するロボットの研究をしています」
 各務が差し出したタブレットを、光忠が覗き込んだ。
 「へぇ・・・そんなものがあるんだねぇ。
 でも僕たちは本丸の中って言う、隔離された場所にいるから知らないだけで、もしかしたら2205年の日本では活躍しているのかもしれないね」
 ね?と、笑みを向けられた長義は、ふと瞬く。
 「こんのすけ・・・・・・」
 「あぁ、確かに!」
 手を打った光忠が、きょとんとする早苗に笑いかけた。
 「狐の姿をした案内役だよ。
 しゃべるし、政府と通信するし、個体差もあるらしいよ」
 「そうか・・・私達は既に、えーあい、というものを知ってはいたんだね」
 感心する石切丸の対面で、長義は考え深げに宙を見つめる。
 「この時代に、あそこまで精巧なものができていたとは考えにくいが、伊吹の『弟』のように念が籠ってしまった可能性もあるのか」
 「さっきは怪談じみた話じゃない、と言ったけれど、あの小狐丸さんが呼ばれたくらいだから、そうかもしれないね」
 「でも、うちの小狐丸さんもそうだけどさ・・・・・・」
 石切丸と光忠が、顔を見合わせた。
 「絶対に、『豊穣の環(わ)』から外れた存在に膝を折りはしないだろうね」
 「豊穣の環・・・?」
 各務が光忠の言葉を繰り返すと、彼は魅惑の笑みを向ける。
 「神様流の言い回しなんだよね」
 「そう・・・神域に身を置くものにとって、共通の考え方、とでもいうべきかな」
 頷いて、石切丸が言い募る。
 「生を得てより懸命に生き、子を増やし、息絶える瞬間まで負けじと足掻く様は、生き物として最も尊く、美しき様だと愛しく思う。
 特に小狐丸さんは、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の眷属だからねぇ。
 生も死も豊穣の環のうちと、めでたく思う・・・でも、そのろぼっととやらは、物だろう?
 私もそうだが、同じ『物』に対して、膝を折ったりはしないね」
 その言葉に、各務ははっとして長義を見遣った。
 高慢なほどに誇り高く、天下五剣に対しても不羈(ふき)であった彼の有様に、納得した。
 「祖に対して礼は尽くすが、主としては戴けない・・・そういうものだ」
 「礼を尽くしてくれるだけ、いい子だよ、長義くんは。
 も・・・大般若くんとか小竜ちゃんとか、自由な問題児ばっかりだとさすがに責任放棄したくなるよね」
 冗談めかして言ってはいるが、かなり本気のため息が漏れる。
 「小狐丸さんも、そこで折れてくれれば簡単なんだけど、一時でも物・・・しかも、自分よりはるかに新しい物に膝を折るなんて冗談じゃない、ってことだろうしね」
 苦笑した光忠は、身を屈めて親しげに長義の肩を抱いた。
 びくっと身を固くした彼の耳に、優しく囁く。
 「小狐丸さんのこと、僕にも手伝わせてよ。
 不法滞在の、お詫びにさ」
 「はい・・・・・・」
 正面を見つめたまま、頬を染めた長義を各務は、まじまじと見つめてしまった。
 
 
 ―――― 瞬いた目に映ったのは、白い部屋。
 調度の一つもなく、殺風景この上ない。
 見回せば、歳の頃は七つほどか、緋色の振袖を肩上げもせず、さらりと着た幼子が、この部屋で唯一の調度のように動かず、じっと彼を見つめていた。
 「人形・・・?」
 跪いて目線を合わせると、それはこくりと頷く。
 と、肩の上で切り揃えた、癖のない黒髪がさらりと流れた。
 一筋の乱れもないそれを、彼は訝しく見つめる。
 「私は仮のぬしさまの元へ呼ばれたはずだが・・・?」
 困惑する彼の視線をしかし、それは黒くつぶらな瞳でまっすぐに見返した。
 「私 は マミ です。
 仮 の 主 です」
 「ぬしさま・・・とな?」
 剣呑な声音に、その場の空気が凍りつく。
 「この小狐、人でなくとも・・・たとえ狐狸の類いであろうとも、血のかようものならぬしさまと仰ごうものを、よりによって人形とは。
 そのような物に使われとうはない」
 「仮 の 主 です」
 繰り返す人形に、小狐丸は不快げに眉根を寄せた。
 「わだつみであればヒトガタを供えられる事もあろうが、あいにく、私にそのような趣味はない」
 冷ややかに言い放ち、小狐丸は人形へ歩み寄る。
 「豊穣の環からはずれた身で、神域に身を置くものを従えようとは分不相応であるぞ」
 言い募り、人形の細い首に手をかけた。
 しかし、当の人形は表情を変えることなく、黒い瞳でじっと彼を見返す。
 その様に、小狐丸は忌々しげに眉根を寄せた。
 「やれおぞましや。
 豊穣の環から外れた者は、死を恐れず、痛みを知らぬ。
 それでは他者の恐怖を、痛みを思うことも出来まい。
 そのような身で、我が主を名乗るは僭越であるぞ」
 「・・・はい」
 呼気を伴わない声が、囁くように発せられた。
 「私 は 死 を 知りません。
 起動終了 するだけ です。
 痛み を 知りません。
 痛覚 は 仕様 に 組み込まれて いません」
 しかし、と、相変わらず表情を変えることなく、黒い瞳でじっと彼を見返す。
 「仮 の 主 です」
 「やれおぞましや。
 私がこなたを主と認めることはない。
 絶対にだ」
 人形の首にかけていた手を解いた小狐丸は、それを冷たく見下ろした。
 
 
 「そろそろ上之社へ向かおうか」
 秋の日は釣瓶落とし。
 いつの間にか薄暗くなった窓外を見て、席を立った石切丸に皆が続く。
 が、各務一人が未だ震える膝を椅子にぶつけ、出遅れた。
 「も・・・申し訳ありません!!」
 焦って謝る各務を、長義が冷たく見遣る。
 「なにをして・・・」
 「ここ、坂が急だもんねぇ。
 慣れない人は足を痛めちゃうんだよね」
 すかさずフォローを入れた光忠が、『ちょっと待ってて』と、一旦店の奥に消えた。
 ややして、
 「仮の主からもらって来たよ。
 湿布と、膝サポーター。
 よかったら使って」
 「ありがとうございます」
 眉目秀麗な上に気遣いまで完璧な光忠に、思わずうっとりとしていると、首筋に刺すような視線を感じる。
 恐る恐る見遣れば、長義が目を吊り上げて睨んでいた。
 「ひっ?!」
 なぜ、と困惑していると、
 「お兄ちゃん、やきもち?」
 と、早苗が無邪気に問う。
 「は?!
 そんなわけないだろう!」
 思わず声を荒らげてしまった長義は、頬を染めてそっぽを向いた。
 「どちらへのやきもちだろうねぇ?」
 くすくすと笑いながら、石切丸が早苗を抱き上げる。
 「上のお宮まで行こうね。
 光忠さんは、仮の主さんと離れて大丈夫なのかな?」
 石切丸が問うと、エプロンを外した光忠はカウンターの向こうから太刀を取り上げた。
 「上之社までなら、十分主くんの力の範囲だよ。
 でも、ぎっくり腰で動けないから、早めには帰ってあげたいな」
 「それはもちろんだよ。
 私も、早苗さんを家に戻してあげないと」
 ねぇ、と微笑みかけると、早苗は笑って首を振る。
 「いしきりさんと一緒なら大丈夫って、おかあさん言ってた!」
 「おや、信用いただけてうれしいね。
 智恵子さんも、小さい頃は私と一緒に遊んでいたからかな?」
 「うん!こぎつねさん助けてあげてって!」
 「智恵子さんは、小狐丸さんのことが大好きだったからねぇ」
 歴史の長い神社のご神体ならではと言うべきか、代々見守り続けてきたゆえの絆に、各務は感心した。
 「あ・・・お待たせしました。
 申し訳ありません」
 湿布と膝サポーターのおかげで辛さが軽減され、もたもたと立ち上がる。
 「各務さんも抱えてあげようか?」
 そう言って両手を広げた光忠へ、慌てて首を振った。
 「滅相もない!!」
 恐る恐る長義を見遣れば、やはり不機嫌な顔でこちらを睨んでいる。
 「行くぞ」
 「はいっ!」
 舌打ち交じりに言われて、各務は慌ててついて行った。
 
 
 カフェから急な坂道を登るとほどなくして、石切神社上之宮と刻まれた石柱が現れた。
 その傍らには石の鳥居が立ち、みっしりと立ち並ぶ玉垣に挟まれた幅の広い階段が更に上へと伸びる。
 人気のない神域へ、早苗を抱えた石切丸が歩を踏み入れた瞬間、階段脇の灯篭に明かりが灯った。
 「だ・・・誰もいないのに・・・?!」
 どういう仕掛けか、と驚く各務を、石切丸が不思議そうな顔で振り返る。
 「私がいるじゃないか」
 「いしきりさんやこぎつねさんがくると、光がつくもんな」
 早苗にまでごく当然のように言われ、神域とはそういうものかと頷いた。
 階段の端を遠慮がちに登る各務と違い、堂々と真ん中を歩く石切丸に、長義と光忠も続く。
 手水舎を過ぎ、白い玉砂利が敷き詰められた境内に入ると、山の上にあるとは思えないほど立派な社殿が現れた。
 「はい、到着だよ」
 早苗を下ろした石切丸が、提げていた桐箱を拝殿に置く。
 「小狐丸さん、こちらになら来られるよね?」
 石切丸が風呂敷を広げ、桐箱の蓋を開けると、太刀と言うには華奢な刀が現れた。
 『―――― ありがたい』
 ひそやかな声がしたと思えば、拝殿に白い靄がたなびき、徐々に人の形をとる。
 「こぎつねさん!」
 『早苗殿も来てくださったか』
 駆け寄った早苗に伸ばした手はしかし、彼女の体をすり抜けてしまった。
 『困ったことになりました』
 深々とため息をついて、小狐丸は眉根を寄せる。
 『ぬしさまに送り出していただいたというのに、誉の一つもあげられず、口惜しや・・・』
 「小狐丸、貴殿の気持ちはわかるのだが・・・」
 進み出た長義もまた、困った様子で眉根を寄せた。
 「ここはひとつ、まげて承諾してもらえないだろうか。
 このままでは、貴殿も本丸に戻れないだろう」
 『至極当然のことと存じますが』
 と、小狐丸はまたため息をつく。
 『私は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の眷属なれば、そうそう曲げるわけにはまいりませぬ』
 「神域のことはわからないんだけど・・・誰か、代理の主を立てることはできないのかな?」
 光忠が口を挟むと、小狐丸は悄然として首を振った。
 『試しては見ましたが、誰も我が声を聴くこと能わず。
 よもやと、早苗殿のような近隣の御子らにも声をかけてみましたが、いつもなら我が声を聴き、姿を見る御子らが、なんの応えもなく・・・』
 「ならば・・・」
 長義が小狐丸を見上げる。
 「このまま本体を依り代として、例の工場へ行こう。
 分霊であったから、貴殿も本来の力を発揮できなかったのかもしれない」
 その証拠に、と、早苗を見遣った。
 「今、彼女には貴殿が見えているようだからね」
 「早苗ちゃんが石切丸さんの仮の主だから、という可能性もあるけど、確かに本体があれば、なんとかなるかもねぇ」
 うん、と頷いた光忠が、長義の肩を抱く。
 「ひゃっ!」
 不意打ちに思わず声をあげた長義に微笑み、光忠は彼の耳に囁いた。
 「だったら、さらっておいでよ、お人形さんをさ。
 僕がカフェから遠く離れられないって言うのもあるけど、ここなら小狐丸さんの霊力も安定しているし」
 「あぁ、我々が工場へ行くのではなく、そのヒトガタをこちらへ持ってくればいいのか」
 頷いた石切丸を、
 「でも・・・」
 と、早苗が見上げる。
 「マミちゃんは勝手に持ってきたらあかんよ」
 「その点は問題ない」
 と、我に返った長義が各務を見遣った。
 「はい。
 こちらの会社へは政府が助成金を出していますので、正規ルートで依頼すれば、多少の無理も聞いていただけます。
 研究者の方も一緒に来ていただくようご連絡しましたので、すぐに来ていただけます」
 タブレットで既読返信のメールを表示した各務に、光忠が拍手する。
 「各務さん、すごいねー!
 仕事できる人!」
 「いえ、私は・・・」
 「謙遜することないよ!
 さすが長義くんの仮の主だよねー!
 9月の事件でも、一緒に頑張ってくれたんでしょう?」
 ね?と、微笑む光忠に覗き込まれた顔を赤くしながら、長義は頷いた。
 「えぇ・・・まぁ、役に立ってくれました」
 「山姥切さま・・・っ!!」
 感涙する各務を見て、光忠がまた、長義の耳に囁く。
 「ね?
 ちゃんとお仕事した時は誉めてあげなきゃ。
 その方がお互い、気持ちいいでしょ?」
 更に顔を赤くする長義の頭を撫でてやってから、ようやく光忠は離れた。
 「小狐丸さん、この状態だと不便だよねぇ。
 何か欲しいものある?」
 油揚げとか、と笑う光忠に、小狐丸は眉根を寄せる。
 『この身では好物を食すこともできませぬ。
 早くぬしさまの元へ帰りたいもの・・・』
 「だからそれは、君が折れてくれればなんだけどねぇ」
 ため息をつく小狐丸に肩をすくめて、石切丸は彼の本体に触れた。
 「まぁ、君が絶対に応じないこともわかっているよ」
 『もちろんでありますよ』
 むくれる小狐丸に、光忠が苦笑する。
 「顕現したのが鶴さんだったらねぇ。
 人形の主なんて、面白がって構い倒すだろうにね」
 『今からでも、代わっていただきたいものですね』
 気が晴れない様子の彼に、光忠が手を打った。
 「そうだ、お人形さんが着くまでしばらくかかるだろうから、何かあったかい飲み物でも持ってこようか。
 小狐丸さんには、お神酒をお供えしようね」
 軽やかに踵を返した光忠に長義が手伝いを申し出るが、彼は笑って首を振る。
 「長義くんは長義くんのお仕事してて」
 気さくに言って、光忠が去ってからしばらくすると、階段下に乗用車が止まる音がした。
 「おや、随分と早いね」
 「至急、とお願いしましたので」
 石切丸の呟きに頷いた各務が、階下まで迎えに降りる。
 「お待ちしておりました。
 夜分に申し訳ありません」
 「え・・・あ、はい・・・いえ・・・」
 深々と一礼した各務の腰の低さに、車から降りた青年がしどろもどろになって頷いた。
 官僚からの呼び出しと聞いて、なにかまずいことでもあったのかと駆けつけたが、どうやらお叱りではないようだ。
 「えっと・・・その、高橋・・・と言います。
 マミの・・・あ、いえ!
 ロボットの開発を担当しています」
 これまで『偉い人』への対応をしたことがなかったため、敬語の受け答えに自信がない彼は、各務より一回りは丸い体を懸命に折って、深々と一礼した。
 「あの・・・社長からここに行くよう言われたんですけど・・・」
 「はい、大変恐縮なのですが、マミさまを社殿にまでお連れ頂けますでしょうか」
 「マミ・・・さま?」
 各務の言い様に目を丸くした高橋は、すぐに我に返って、乗用車の後部ドアを開ける。
 「梱包はされないのですか?」
 人間の子供のように、チャイルドシートに座った人形を覗く各務に、高橋は頷いた。
 「マミは人間の子供と同じように扱っても大丈夫な耐久性がありますし、体重も成人女性が抱えられる程度の重さに設定しています。
 走ることはできませんが、階段を登るくらいの歩行は可能です。
 学習機能により会話もできますし、感情の発露も適切に・・・」
 機能の話になった途端、饒舌な高橋を各務は慌てて遮る。
 「お話はできれば、拝殿にてお願いできますでしょうか」
 「は・・・はぁ・・・・・・」
 頷いた高橋は、人形を子供のように抱き上げて、階段を登った。
 「灯篭が明るいなんて、お祭の日みたいですねぇ・・・」
 「お祭が、神様をお迎えすることでしたらまぁ・・・そうですね」
 「は?」
 言葉を濁す各務を訝しく思いながら階段を登り切った高橋は、拝殿の前に並ぶ面々にまた、目を丸くする。
 「いしきりさん?!」
 「おや、誰が来るのかと思えば、高橋の信彦さんじゃないか。
 君、子供の頃はいつも境内で遊んでいたのに、最近は初詣にも来ないよね」
 意地悪く笑った石切丸に、高橋が慌てた。
 「すんません・・・って、いや!なんで神様がおるんや!!」
 『私が困っているからですよ』
 「んぎゃ!
 こぎつねさんまでおるやん!!
 俺、なんか悪いことした?!」
 幼い頃、境内の池にいた亀にいたずらしてひどく叱られたことがある彼は、怯えた顔で小狐丸を見つめる。
 と、
 「あれ・・・?
 こぎつねさん、なんやうすない?」
 幼い頃に見た彼は、装束も髪も鮮やかだった気がするが、今の彼は
 「なんやグレースケール」
 『他に言い方はないのですか』
 ムッとして、小狐丸は高橋が抱える人形を指した。
 『そのヒトガタのせいですよ』
 「マミの?」
 『なんともくじ運の悪いことに・・・そのヒトガタを主とせねば、顕現出来ぬ目に遭っているのです』
 と、仮の主についての事情を語る小狐丸に、高橋は乾いた笑声をあげる。
 「金運ないやん、いしきりさん」
 「君ねぇ・・・。
 初詣にも来ないくせに、金運だけ頼みに来るつもりかい?」
 図々しい、と石切丸に呆れられて、高橋は首をすくめた。
 「いや!でも!
 それってうちのマミがこぎつねさんから見ても人間に近かったって事やろ?!
 これ、俺が作ったんやで!」
 途端に自信満々に胸を張る高橋に、小狐丸がため息をつく。
 『ただのヒトガタに、この小狐が囚われるはずもない。
 信彦殿、何をしたのです?』
 きっと何かあるはず、と詰め寄る小狐丸に、高橋は首を振った。
 「俺に術やらなんやらできるわけないやん。
 こうゆう可愛い娘できたらええなー、でも先に彼女やなーってくらいか?」
 『相変わらずあほの子・・・』
 「言いすぎやろ」
 「すまないが・・・」
 会話のノリについて行けず、困惑げに見守っていた長義が、ようやく口を挟む。
 「俺としては、早くこの件を終わらせたいんだ。
 小狐丸がなぜ仮の主を受け入れられないか検証するためにも、起動してもらえないだろうか」
 「あ!そうでした!」
 各務の言う神が神でも馴染みの神だったこともあり、すっかり緊張がほぐれた高橋は、境内に立たせた人形の頭を撫でてやった。
 「マミちゃん、起きてや」
 高橋の声に、人形が目を開ける。
 「マミちゃんや!」
 駆け寄ってきた早苗に、人形は笑いかけた。
 「早苗 ちゃん」
 「覚えてくれてたんや!」
 嬉しげに目を輝かせる早苗に、高橋が得意げに頷く。
 「マミの学習能力は世界一やで!
 一度見た顔は忘れんし、今んとこ、この子を超えるロボットはおらんのやから!」
 更に!と、高橋はマミを示した。
 「目を大きめに、口を小さめに作って、いわゆるデフォルメすることで、恐怖の谷を克服!
 誰もが『可愛い』と思う子に仕上げてんで!」
 どや!と、鼻を鳴らす高橋に、早苗だけでなく各務も頷く。
 「うん!可愛いで!」
 「はい、気持ち悪さは感じません」
 「そやろ?!そしてこの表情!!」
 嬉しそうに笑うマミを、高橋は得意げに示した。
 「可愛いって言われたらこうゆう、嬉しそうな顔するんや!
 社長はいずれ猫耳を付けて更なる完全体に!ってゆーとるんで、あの脳波で動く猫耳実装に向けて、開発してますのや!!
 けどあんまり媚びる性格やと女子受けが悪いんで、ちょっとツンデレな塩対応も重要やな!」
 『まったくこのあほの子は・・・!』
 頭を抱えてしまった小狐丸に、高橋は鼻を鳴らす。
 「こぎつねさんかてケモ耳枠やろがい!」
 『一緒にするでないわ!』
 「あれ?僕がいない間に、なんか楽しそうなことになってるねー」
 と、一旦カフェに帰った光忠が、バスケットを抱えて戻ってきた。
 「軽食も作ってきたよー!
 あ、この子がマミちゃん?
 可愛いねぇ!」
 なんのためらいもなく頭を撫でてやる光忠に、小狐丸が眉根を寄せる。
 『可愛いものですか。
 物の分際で私の主になろうなど、おこがましい』
 忌々しげに言えば、マミは悲しげにうなだれた。
 「ウチの子泣かすなや!
 そないゆうならこぎつねさんバージョン作ったろか!」
 『祟りますよ?!』
 「まぁまぁ、落ち着いて」
 長義が会話に入れずにいることにいち早く気づいて、光忠が間に入る。
 「小狐丸さんに、お神酒持ってきたよ。
 みんなにはコーヒーと、早苗ちゃんにはココアね。
 冷えてきたから、ブランケットも持ってきたよー」
 早苗の前に跪いた光忠が、ブランケットを広げて包んでやると、早苗は真っ赤になって声を失った。
 「おや、早苗さんには不要だったみたいだね」
 石切丸に笑われて、早苗は更に赤くなる。
 「ところで、君がマミちゃんを作った人?
 ウチの長義くんが、話があるんだって」
 さぁ、と、背中を押されて進み出たものの、困り顔で固まってしまった長義はまるで、父兄参観で委縮している子供のようだ。
 「話・・・と言っても・・・」
 仮の主については小狐丸が話しているし、彼が人形を仮の主と認めないうちは、顕現も帰還もできないだろう。
 困り果てていると、高橋がはたと手を打った。
 「ちょお待ってや。
 マミちゃん、そもそもなんであんた、自分がこぎつねさんの仮の主やと思ってんのや」
 「データ を 読み込み ました」
 「なんの?」
 「2012年9月18日 より。
 全国 で 起きた 異常事態。
 人間 が 起動停止 する 事件」
 「なんだと?!」
 「ば・・・ばかな・・・!」
 長義と各務が、同時に蒼ざめる。
 「あのデータは時の政府が主導して、すべて消去したはずだ!」
 「は・・・はい、現在の政府からも、記録は削除されています。
 記憶を保持しているのは私と、限られた・・・なぜ!!」
 「うん、ちょっと待ってくれるかい?」
 まるで犯罪者を見る目で高橋に詰め寄る長義へ、石切丸が声をかけた。
 「長義さん、時の政府が削除したのは『人間の』記憶と、日本政府および時の政府の公的記録だよね?
 だったら、日本政府の支援があったとはいえ、大手とは言えない一企業の機械が所有する記録の消去までは、気が回らなかったのでは?」
 「なんてことだ・・・!」
 時の政府では先般の事件の責任を取って、既に幾人かの首が飛んでいるというのに、更なる失態が明るみに出た以上、追加で首を飛ばされるだけでは済まない。
 「マミのような記憶媒体の洗い出しと記録の消去・・・・・・。
 とんでもない規模の事後処理になるぞ・・・!」
 自分一振りでは到底、対処しきれるものでもないと、長義は頭を抱えた。
 と、各務が長義へ向き直る。
 「本丸に帰還できない男士のサポートは隠密裏に、ということでしたが、こうなっては仕方ありません。
 首相に報告し、日本政府で情報を取得・保持する機器の洗い出しを行います」
 言うや、片手でタブレットを操作しつつ、各所へと電話連絡する。
 9月の事件の際には相手に不快感を与えないよう、穏便に処理を進めていた各務が、今回は時に厳しく、威圧的にふるまう様に、長義は唖然とした。
 本当に同じ人物かと、訝しむ間もなく彼は、高橋に対してタブレットを差し出す。
 そこには、既に経済産業大臣の朱印が捺された書類が、PDFで表示されていた。
 「マミさまを接収いたします。
 ご協力感謝いたします」
 「は・・・はぁ?!」
 接収など、現代の日本人が言われることはまずない。
 そんな言葉を生まれて初めてかけられた高橋は思考停止した。
 「おい、君・・・それはさすがに・・・」
 2205年であってさえ、国民に対して接収など行うことはないと、慌てる長義の前へ各務が歩み寄る。
 「山姥切さま、現代の仮の主として、あなたへ命じることをお許しください。
 2205年の時の政府へ、協力の要請をいたします」
 真剣な面持ちに一瞬、気を呑まれた長義だったが、すぐに我に返り、高慢に顎をあげた。
 「承知した。
 あとは任せてもらおう」
 前髪をかき上げ、拝殿へと進み出る。
 「小狐丸、ひとまずこの機械を主と認めろ」
 『なんと・・・!』
 傲慢な物言いに牙をむく小狐丸へ、長義は鼻を鳴らした。
 「宇迦之御魂神も、眷属が時間軸の狭間で迷うことは望んでいないだろう。
 お前が現世へ顕現したのち、この機械から情報を消去する」
 「そうか・・・。
 今、マミさんの記録?
 記憶と言うべきかな。
 それを消去してしまったら、小狐丸さんは迷ったままかもしれないしね」
 うん、と頷いて、石切丸も拝殿へ歩み寄る。
 「ここは折れるべきだよ。
 長義さんも、全てを消去すると言っているのだから」
 「マミちゃん・・・消えてしまうん・・・?」
 不安げな早苗には、各務が首を振った。
 「大丈夫です。
 記憶媒体は、物理的破壊も含めて消去することになりますが、機械本体は・・・」
 「あんた!
 そんな簡単なこととちゃうぞ!!」
 マミを庇うように立ちふさがった高橋が、声をあげる。
 「これまで・・・ここに来るまで、えらい時間も努力もあったんや!
 そんな簡単に消すやなんてな!!」
 「高橋様。
 私は、こちらを接収すると申しました。
 マミさまは国家機密に関する情報を取得し、保持してしまっています。
 あなた方の努力を無碍にするつもりも、この本体を傷つけるつもりもありませんが、あなたが記録の消去を拒むようでしたら、私は内閣官房国家安全保障局の職務として、本体ごと破壊しなければなりません」
 腰の低かった各務の、厳しい言い様に高橋は黙り込む。
 「もちろん、できるだけ本体を傷つけないよう、高橋様にはご協力をお願いしたいと考えています」
 その言葉に、高橋はややほっとした表情を見せた。
 「へぇ・・・。
 長義くんと各務さん、いい主従じゃないか」
 だったら僕も、と、光忠がマミを抱き上げ、拝殿に置かれた小狐丸の本刃の隣に並べる。
 「はい、みんな一旦、境内から出ようか。
 人形に従うところなんて、小狐丸さんは見られたくないだろうしさ」
 そして、と、小狐丸へ微笑んだ。
 「お供えしたお神酒は僕が預かっておくから。
 顕現したら、飲みにおいでよ」
 キリ・・・と、歯を食いしばる小狐丸へ手を振って、光忠が先に境内を出る。
 「まったく・・・うまいね、光忠さんは」
 苦笑した石切丸も、早苗を抱き上げて階段へ向かった。
 「さ、行くよ、信彦さん。
 君達も、私の本丸の一振りに恥をかかせないでおくれ」
 『石切丸殿!!』
 境内を出ようとする石切丸に声をかけると、彼は肩越しに微笑む。
 「本丸で主が待っているよ。
 君が戻って来ないって、泣き暮らしているから。
 早く帰っておいで」
 背後へ振った手を高橋の背に伸ばし、石切丸もまた、長義や各務と共に境内を出て行った。
 
 
 『・・・まったく、なんということか』
 結局、この人形に屈する他ないのかと、頭を抱える小狐丸を、マミが見つめる。
 『・・・そのように見るでない』
 「私 は 起動終了 しますか」
 『あぁ、そうなるのであろうな』
 事情を全て理解したわけではないが、各務とやらの人間の話では、この人形の記憶を全て破壊するということだ。
 『死を知らぬこなたの死と言う訳か』
 初めて会った時の会話を思い出した小狐丸は、ふと見遣ったマミの表情に目を見開いた。
 今にも泣きだしそうな、怯えた子供の顔に、これまでの不快も忘れて見入る。
 「壊さない で ください。
 おねがい です」
 『・・・よくもそのような・・・人の真似事を・・・・・・』
 突き放すようなことを言いつつも、小狐丸の声にこれまでの嫌悪はなかった。
 「こわい です。
 壊される のは こわい です」
 涙を流す機能をもっていれば、ほだされたかもしれない・・・。
 それほどに、子供が怯える様は胸を締め付けられる思いだった。
 ため息をついた小狐丸は、人形へ手を伸ばす。
 『・・・そのように怯えずともよい』
 早苗の身体をすり抜けた手が、なぜか人形の髪には触れることができた。
 「私とて元は、人ならざるもの。
 これ、ここにある一振りの刀じゃ」
 声が、周りの空気を震わせる。
 「だが長き年月、人の心を注がれることで今、こうしてこなたに触れる身体を得た。
 物であった私が、更に幼き物に心を注ぎ、付喪神に化生させるのも一興か・・・」
 拝殿を降りた小狐丸は、人形へ手を差し伸べる。
 「我がぬしさまは我が本丸のお一人のみ。
 こなたを主とは認めぬが、仮の宿主として在ってもらうぞ」
 人形を抱き上げた小狐丸は、ことさらに表情を消して階段へ向かった。
 
 
 ―――― 2205年、時の政府にて。
 協力要請のため、一時帰還した長義を待ち受けていたのは、もう一振りの監査官だった。
 「一文字則宗・・・」
 「おやおや、そう嫌な顔をしなさんな」
 くすくすと笑いながら、則宗は手にした扇子の先を長義へ向ける。
 「聞いたよ。
 お前さん、たった一振りで事後処理をやっていたそうじゃないか。
 大変だったろうに僕達に協力要請しないなんて、真面目なんだか意固地なんだか」
 「幾人も首を飛ばされた後だからな。
 これ以上の失態を公にするわけにはいかなかったということだ」
 結局、大事になってしまったがと、ため息をつく長義にまた、則宗が愉快そうに笑う。
 「2012年への時間遡行なんて楽しそうなこと、好奇心旺盛な連中が飛びつかないわけがないだろう。
 南海はとっくに行ってしまったし、肥前も彼を追いかけて行ったよ。
 慎重な水心子と、彼についていたい清麿はまだ残っているがね。
 古今なんて、当時の道中記(ガイドブック)を探しに国立図書館へ行っているよ。
 地蔵は荷造りを命じられたそうだから、長逗留するつもりじゃないのかねぇ」
 「のんきだな!!」
 「協力しようというのに、つれないねぇ」
 広げた扇子で風を送ってやると、長義は鬱陶しげに手を払った。
 「南海と肥前を呼び戻すぞ。
 持ち場を決めてからやった方が、効率がいい」
 「おいおい、そんなこと、いくら南海でもわかっているよ」
 言って、則宗は閉じた扇子を掌に打ち付ける。
 と、その音に呼ばれて、こんのすけが一匹駆け寄って来た。
 心得た管狐は、首輪から発した光で白い壁に日本地図を表示する。
 「2012年9月の事件と同じ持ち場でいいだろう?
 関東はお前さんの担当、蝦夷は南海、東北は清磨、中部は水心子。
 近畿は僕で、中国が地蔵、四国は肥前、九州と琉球は古今だから、南海と肥前を持ち場に移動させるだけでいいさ」
 そして、と、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべた。
 「審神者へ最初に下げ渡される刀達。
 彼らにも手伝ってもらうことにする。
 古今は歌仙を連れて行く気だし、もちろん加州の坊主は僕がもらうぞ!」
 審神者が手にする最初の政府顕現刀達の名を挙げる則宗に、長義は舌打ちする。
 「俺は手伝ってもらうことなどない!」
 「そう言う訳にはいかんだろう。
 迷っている男士の数は、土地の人口に比例するもんだ。
 日本の人口が集中する関東に、手伝いが要らんわけはないなぁ」
 ちなみに、と、則宗は扇子の先を唇に当てた。
 「お前さんが断ったって言う、源氏の二振りの協力は、僕がありがたく受けておいたよ。
 なにしろ倉橋の家は、今なお続く由緒正しい審神者の血統だ。
 現当主は特別に事件の記憶を保持しているわけだし、天満宮なら情報を集める拠点としても役に立つだろう?」
 「勝手なことを・・・!」
 歯噛みする長義へ、則宗は楽しげに笑う。
 「あぁ、勝手ついでにお前さんの協力者も要請しておいたよ。
 可愛い弟分と一緒に頑張るんだぞーぅ!」
 「な・・・!!待て!!」
 言いたいことだけ言って去って行く則宗を、長義は慌てて追いかけた。
 
 
 「あの・・・。
 山姥切さま、そちらは・・・」
 2012年のカフェへと戻った長義が連れ帰った刀に、各務は困惑げに声をかけた。
 「山姥切国広・・・だ。
 あんたを仮の主とするので、よろしく頼む」
 粗末な布で顔を隠し、呟くように言う彼に、各務は頷く。
 「え・・・えぇ、お名前は存じておりますが・・・・・・」
 事件のきっかけとなった彼とはまた、別の個体・・・と言っていいのか、伊吹についていた山姥切国広とは、少し違った雰囲気だった。
 「クソジジィ・・・いや、一文字則宗に押し付けられた」
 「そっか。
 じゃあ一文字のご隠居さんは、加州くんを連れてってるのかな?」
 カフェのカウンターから声をかけてきた光忠に、長義はむくれて頷く。
 「・・・本丸に所属している刀ならともかく、政府所有の『始まりの五振り』は戦闘経験がないというのに」
 「確かに、戦場に出た経験はないが、練度はそれなりにあるぞ。
 本歌だって、この時代に派遣される前はそうだったろう」
 不満げな長義に対し、冷静に反駁する様も、あの国広とは違う様子だった。
 「そっかぁ。
 うちの本丸、僕が顕現した時点で始まりの五振りは揃っていたから、戦闘経験がない国広くんを見るのは初めてだな!」
 なぜか嬉しそうに言って、光忠がカウンターから出て来る。
 「はい、長義くんにはコーヒー。
 そして国広くんには、うちの国広くんが好きなドリンクね。
 アイスカフェモカにホイップたっぷり、チョコソースかけクラッシュナッツトッピング!」
 「ありがとう、甘いものは好きだ」
 「は?!
 偽物のくせに贅沢な!!」
 思わず席を立った長義に、光忠が微笑んだ。
 「長義くんもこっちがよかった?
 作ってあげよっか」
 「あ・・・いえ・・・・・・!」
 光忠が作ったドリンクなら飲んでみたいという気持ちと、光忠の前で子供が好むような物を飲むのは格好が悪いという気持ちがせめぎ合う。
 「素直じゃないな」
 早速グラスを取った国広が、ため息交じりに言う。
 「あれが例の人形か」
 睨んでくる長義を無視して、国広はソファに座る人形を見遣った。
 無事に顕現できた小狐丸は既に自分の本丸へ帰還し、石切丸も早苗を家に送り届けてから帰還すると言う。
 接収に大騒ぎしていた高橋は、国家権力によって言い含められ、帰宅を命じられていた。
 「よくできてるでしょ。
 ねぇ長義くん、この時代で迷っている男士はまだいるって言うし、マミちゃんみたいな記憶媒体を探しながら、迷子の手助けまでするのは、時の政府の刀だけでは大変だよね?
 僕もお手伝いを申し出るよ」
 と、にこやかに光忠が言う。
 「他の刀も呼んじゃう?
 うちの主はのんびりさんだけど、一番古い備前国の審神者だし、毎日コツコツがんばる人だから、どの刀も強いよ?」
 「お申し出はありがたいのですが」
 手をあげて、長義は首を振った。
 「仮の主を選出する時点で、またこんな事態が増えないとも限りません。
 記憶媒体の洗い出しは今、この時代の政府がやってくれていますから、入手ののち、時の政府が後世への影響を鑑みつつ、情報を消去することになります」
 「大雑把にはいかないか」
 苦笑した光忠に頷いた長義が、眉根を寄せる。
 「一期の本丸からも申し出がありましたが、断固断りました。
 ・・・政府に使い走りさせやがって」
 忌々しげに言った長義に、光忠も頷いた。
 「相模の審神者さんでしょ。
 あそこは入国開始当初から呪われてるって噂だったから。
 特に政府に対して反感が強いんだろうね」
 「そ・・・それであのような・・・・・・」
 一期の、冷たく光る青い目を思い出し、各務が震え上がる。
 穏やかに微笑んでいるにもかかわらず、常に白刃を向けられているような気がしていた。
 「うちの主くんも、相模はいつか反乱起こすんじゃないかって心配していたからねぇ。
 一文字のご隠居さんが源氏さん達を取り込んだのも、その監視かもね」
 「あのジジィ、本当にぬかりない・・・!」
 呻くように言った長義を慰めるように、光忠が彼の頭に手を置く。
 「真面目な子って、大変だよねぇ。
 大般若くんや小竜ちゃんほど自由にとは言わないけどさ、ちょっとは肩の力を抜きなよ」
 よしよし、と撫でられて、耳まで赤くする長義を横目で見ていた国広が、空になったグラスをテーブルに置いた。
 「その負担を軽減するのに、俺を連れてきたんだろうが。
 人口が少ない地域を担当している政府顕現刀も、終わったら手伝いに来ると言っているし。
 一振りで抱えることはないぞ、本歌」
 「どこから目線だ!
 お前なんかの手伝いがなくても、俺と各務だけで充分だ!」
 「そんなわけないだろう。
 こんな激務、普通の人間なら死ぬそうだ」
 則宗に聞いた、と言う国広に、長義はますます不機嫌になる。
 国広に言われるまでもなく、寄せられる情報を次々と処理している各務の目が血走っていく様には気づいていた。
 しかし事情が事情だけに、休めとも言えずにいる長義を、国広がじっと見つめる。
 「本丸は審神者一人、刀一振りで作るものじゃない。
 俺達始まりの刀が、最初に言われることだ」
 「そんなことはわかっている。
 だからこそ、先般の事件では各本丸の助力を仰いだんだろうが」
 ムッとして眉根を寄せた長義に、国広がため息をついた。
 「それは政府の方針だろう。
 本歌が率先して協力を乞うたわけじゃない」
 その証拠にと、各務を見遣る。
 「本歌が意固地になっているから今、主の健康を損ねているじゃないか」
 図星を指されて、黙り込んだ長義に国広は小首を傾げた。
 「この時代に顕現できた連中に協力を要請すべきだ。
 記録媒体の件は政府に任せて、俺達は迷っている男士の救出に専念する。
 それが役割分担じゃないのか」
 「・・・・・・生意気な!」
 「他の俺と違って、俺は政府の所有刀だからな。
 ・・・あんたの嫌味には慣れている」
 国広の言い様に吹き出した光忠が、各務に声をかけた。
 「各務さんは、長義くんと一緒に男士の救出に行くかい?
 それとも、記憶媒体の洗い出しに専念して、長義くんにお手伝いさせる?」
 「そ・・・それは・・・・・・」
 どちらも、という答えは却下される。
 「君達は似ているね。
 生真面目で、責任感が強くて、意固地。
 でも、目指す結果はわかっているよね?
 迷子をお家に帰すことと、2012年9月の事件の記録を完全に消去すること」
 同じテーブルに着いた光忠は、そう言って砂糖壺を開けた。
 「10という結果を出すのに、1を10回足す必要はないでしょ」
 砂糖壺から取り出した角砂糖を10個、ソーサーの上に並べる。
 「5+5でも、5×2でも、結果は10だよ。
 だったら、簡単に答えにたどり着く方法を選びなよ」
 いたずらっぽく笑って、各務と長義のコーヒーに角砂糖を入れてやった。
 「僕は近畿を担当している則宗さんに連絡を取って、協力を申し出ることにするよ。
 せっかくだから、今のうちに石切丸さんにも協力お願いしちゃおうかな。
 君達は君達の持ち場で頑張って」
 にこやかでありながら、有無を言わせぬ迫力で言われ、長義がぎこちなく頷く。
 「じゃあ俺は政府経由で、渋谷に顕現した刀達に再度協力を申し込んでおこう」
 「余計なことをするな!」
 すかさず言うと、国広が頷いた。
 「そうだな、本歌から連絡した方が、話の通りがいいだろう。
 任せた」
 まんまと乗せた国広に、光忠は目を輝かせる。
 「すごいね!
 扱い慣れてるね!
 政府の子達は仲良しなんだねぇ」
 良かった、と、ほのぼの笑う光忠に、長義は必死に首を振った。
 
 
 「―――― なるほど、それで私を。
 もちろんご協力しましょう。
 しかし・・・」
 内閣官房国家安全保障局地下施設に招かれた数珠丸恒次が、不思議そうに首を傾げた。
 「あの時は、私以外にも多くの男士が参集したでしょう。
 三日月殿や大典太殿を差し置いて、私のような末席になぜ?」
 天下五剣の一振りでありながら、自らを末席と謙遜する彼に、長義はほっと吐息する。
 「他の連中は自由過ぎる。
 鶴丸なんて呼ぼうものなら、どう引っ掻き回されるか分かったもんじゃない。
 それに、粟田口には借りを作りたくない」
 「本歌は意外と打たれ弱いから、口が達者な連中は苦手なんだ」
 「黙っていてくれるかな、偽物くん」
 すかさず言った長義に、数珠丸が微笑んだ。
 「怪異でしたら、本物もそうでないものも、私の担当ではあるかもしれませんね」
 言って、数珠丸は各務が淹れた茶を取り上げる。
 「2012年9月以前の情報は無視してよいようですし、ここ二週間ほどで話題になっている怪異を集めれば良いのでしょう?
 この時代は、すぐに情報が出回ります」
 各務の茶を口に含んだ数珠丸が、満足げに吐息した。
 「どうせ最後には時の政府が記憶も記録も消してしまうのです。
 報道局全社を使って、怪異特集を組ませればいいでしょう。
 実際に放送することはありませんが、彼らの情報網を使って、大々的に募集してしまいなさい」
 「報道局・・・!」
 目を見開いた長義が各務を見遣ると、心得た彼はすぐに部屋を飛び出して行った。
 「そうか・・・。
 これまで隠密裏に処理していたが、明るみになった以上、この手が使えたか」
 満足げな長義に頷き、国広は意外そうな目を数珠丸へ向ける。
 「さすがの知恵だが・・・。
 あんたがこの時代の情報に通じているのは意外だったな」
 「そうですか?」
 くすりと笑って、数珠丸は茶器を茶托へ戻した。
 「僧は昔より、情報伝達を担ってまいりました。
 教義を日ノ本中に広めるため、権力者と通じる僧もおりましたでしょう。
 私からすれば、ごく当然の進言ですよ」
 と、数珠丸の提案から間もなくして、各テレビ局ではCMの合間やゴールデンタイムの番組内で、『現代の怪異を徹底検証!あなたが見た最新の怪奇現象を募集!』の告知がなされた。
 SNSでは地方局も含め、全国の放送局が一斉に怪異の募集を始めたことが話題となり、応募はしないまでも『そう言えばこんなことが』という話題で盛り上がっている。
 その様を手元の端末で楽しげに眺めていた数珠丸は、最も話題となっている数件をあげた。
 「関東の話題で絞った情報と、各本丸から寄せられた行方不明者の情報を照らし合わせれば、これらが有力でしょうね。
 ・・・白い着物の女の幽霊は別本丸とはいえ、確実に身内ですから、私が行きましょう。
 何をやっているのでしょうね、彼は・・・」
 と、数珠丸はため息をつく。
 「では、俺は山中の木々が一斉に枯れた方だな。
 これは林野庁を通じて報告が上がっていたものだが・・・おそらく、抜丸だろう」
 長義の言葉に、国広が頷く。
 「まだ新しい本丸の太刀だな。
 政府に催促できるほど、強い立場の審神者じゃないが、何度も捜索願を出している」
 「それは早く帰してあげたいですね」
 微笑んで、数珠丸はすらりと立ち上がった。
 「行きますよ、佐々木殿」
 部屋の隅で固まっていた中学生男子が、声をかけられて『ひぃ!』と悲鳴をあげる。
 「じゅ・・・じゅず・・・さ・・・!!
 幽霊ってなに?!」
 びくびくと怯える彼に、数珠丸は苦笑した。
 「私の兄弟なのですが、ちょっと困った刀で・・・けれども私がついています。
 怖いことはありませんから」
 「ほ・・・本当に?!」
 「本当ですとも」
 数珠丸が微笑むと、彼はほっと吐息して立ち上がる。
 「俺達も行くぞ」
 「お前が言うな!」
 先に立った国広の肩を掴んだ長義は、彼を追い越して部屋を出た。
 
 
 既に日が落ちた中、山姥切達は各務が運転する車で山中へ向かっていた。
 後部座席に並んでいるものの、ずっと無言でいる二振りには息が詰まる思いだ。
 「あの・・・木が枯れていると情報があったのは、この辺りになります・・・」
 通行止めとなった道の手前で車を止めた各務に、長義が頷いた。
 見れば、ガードレールの向こうに並ぶ木々の多くが立ち枯れている。
 SNSに上がっていた情報では、
 『怪奇とは違うけど、山の木が何本も一斉に枯れて、いつも通ってる道が倒木の危険ありで通行止めになった。異常気象?』
 と言うものだ。
 「これを抜丸の行方不明情報と結びつけた本歌はさすがだな」
 独り言のように呟いた国広が、長義に続いて車を降りる。
 照れ隠しか、ことさら不愛想に鼻を鳴らした長義は、辺りを見回した。
 「時間軸の狭間に落ちてしまうと、現世で身体を保てない。
 ならば抜丸は少なくとも、顕現はできているのじゃないかな」
 そうでなければ、現世の木を枯らすこともできないだろう、と言う彼に、各務が頷く。
 「これは目印だと思われます。
 この付近にいる、と言う・・・」
 「だったら話は早い」
 言うや、長義は刀を抜いた。
 久しぶりに見る戦装束の彼は、優雅にマントを翻し、高慢に顎をあげて国広を見遣る。
 「君もだよ」
 「あぁ」
 促された国広も刀を抜き、立ち枯れた木々へ向かった。
 次の瞬間。
 二振りが発した気迫にまだ瑞々しい木々さえ揺さぶられ、鳥が悲鳴をあげて飛び立った。
 
 
 ―――― その気配に、立ち枯れた木の根元に座り込んでいた彼が、顔を上げる。
 「・・・迎えに来てくれましたか」
 微笑んだ彼、抜丸は、よろよろと立ち上がった。
 「登るだけの力が残っていませんのでね。
 迎えに来ていただけますか?」
 静かな口調ではあったが、聞き取った二振りはガードレールを飛び越えて抜丸の元へ降り立つ。
 「助かりました、政府の山姥切達」
 「なにがあった?」
 「迷子ですよ。
 禿ですもの」
 はぐらかそうとしたものの、長義に睨まれて抜丸は苦笑した。
 「ひとまず、上に運んでくれませんか。
 連日連夜の襲撃には、さすがに疲れました」
 「敵がいると?」
 抜丸を抱き上げた国広が問うた時には、既に長義の姿はない。
 木立を足がかりに車道へ戻った彼は、各務を襲う敵を斬り伏せた。
 「ふざけた真似を!」
 長義の気迫に怯んだ隙をついて、車道を埋める敵を次々に斬り伏せる。
 「本歌!」
 「禿も、もうひと踏ん張りでしたら」
 国広の腕から降りた抜丸が、身を低くして敵に斬り込んだ。
 「・・・さすがは平家の重宝だな」
 感心しつつ抜刀し、国広も敵に向かう。
 「・・・こいつら、本物の時間遡行軍だな」
 「本物?」
 長義が呟いた言葉に、抜丸が訝しげな顔をした。
 「この時代の敵は、殲滅したんじゃなかったのか」
 「力及ばず」
 国広の指摘には苦笑し、更に斬り込もうとした抜丸の膝が崩れる。
 「・・・情けない」
 「いや、後は任せてくれ。
 各務!」
 「は・・・はい!!」
 抜丸の小柄な身体を抱えた各務が、戦闘から急いで離れた。
 「さっさと済ませるぞ」
 長義の不機嫌な声に、国広が頷く。
 「証拠隠滅というやつか」
 「は?!」
 目を吊り上げた長義が、手近の敵をまとめて斬り伏せた。
 「証拠隠滅とは何だ!
 任務だ任務!!」
 「政府が把握していなかった時間遡行軍の殲滅、つまり証拠隠滅だろ」
 「人聞きの悪い!!」
 長義が振り下ろした刀にかかり、また数体が消え失せる。
 「どうごまかしたところで、こいつらが証拠だ」
 「ここで殲滅してしまえば問題ない!」
 「やっぱり証拠隠滅だ」
 口喧嘩をしながら、二振りは確実に敵を滅して行った。
 その様に、
 「こちらの山姥切達も、仲が良いのか悪いのか・・・」
 と呆れ顔で、抜丸が呟く。
 「それでも、強いのは確かなようです」
 「えぇ。
 ところで抜丸さま、お怪我の程度は・・・」
 気づかわしげな各務に、抜丸が微笑んだ。
 「大小の傷が身体中に。
 早く手入れをしていただきたいものです」
 気丈にふるまってはいるが、血の気の失せた顔はただ事ではない。
 一刻も早く安全な場所へと二振りを見遣れば、未だ激しく口論しながら、互いへの苛立ちを敵にぶつけていた。
 「なにやら敵が気の毒ですね・・・」
 抜丸の言葉に、うっかり思っていたことが声に出たのかと思った。
 「貴様!
 帰ったら覚えていろ!」
 「本歌の嫌味なんて、一々覚えていない」
 最後の一体まで、とうとう一瞥すらせずに斬り伏せ、山中は途端に静まり返る。
 「無事か?」
 納刀して歩み寄った長義に問われ、抜丸は微笑んだ。
 「おかげさまで。
 事情はお話ししますが、まずは応急処置をしていただいても?」
 「もちろんだ」
 各務を見遣ると、心得た彼は抜丸を車の後部座席へ乗せる。
 「なるべく静かに移動しますが、傷にさわるようでしたらおっしゃってください」
 「ええ、ありがとうございます」
 「応急処置は俺がやる。
 不器用な偽物くんは助手席に行け」
 「わかった」
 夜の山道を麓へ戻る車中で、応急処置を受けながら抜丸はため息をついた。
 「まずはお騒がせしたお詫びを。
 木枯らしは良くないこととわかっていましたが、他に気づいてもらえる手段がなく」
 「仮の主はどうした?
 まさか、この山中に迷っているなんてことは・・・」
 訝しげな長義に、抜丸は首を振る。
 「まったく運の悪いことに、禿が見つけた主は、悪事の最中であったようで。
 この姿を見るなり悲鳴を上げて、この乗り物よりももっと速く逃げてしまいました」
 「悪事?
 遺体でも埋めていたか?」
 「へっ?!」
 国広の問いに、各務が慌てた。
 「そういう生々しいものではありませんでしたよ。
 なにやら大きな鉄さびやら、黒くて大きな車輪やら」
 「あ・・・あぁ、不法投棄ですか・・・・・・」
 遺体ではなくてよかったが、犯罪ではあるので通報しておく、と言う各務に抜丸は苦笑する。
 「顕現はしたものの、主が遠くに離れては、本来の半分も力が出せません。
 一旦帰還しようかとは思ったのですが、時間遡行軍の襲撃に遭い、彼らを足止めせざるを得ませんでした」
 木を枯らしたのも、人を近づけないためだという。
 「倒木の危険があるとなれば、人は入って来ませんのでね。
 担当の役人が来るまでには敵を屠っておきたかったのですが、力及ばず・・・」
 応援を要請しようにも、まだ新しい彼の本丸は練度が高くない。
 「仮の主がいない状況で、仲間を呼ぶわけにはいきません。
 禿は太刀ですから、なんとか持ちこたえましたが、短刀達では折れてしまうでしょう?」
 「あぁ、それはそうだが・・・」
 もの言いたげな国広へ、抜丸はバックミラー越しに微笑んだ。
 「禿の主もまだ、練度が高くないのです。
 主にも危険が及ぶ状況で、始まりの一振り・・・我が本丸の山姥切国広を呼ぶことができるとお思いですか?」
 「そうだな・・・ここで俺を呼んだところで、なにも役に立たないだろう。
 すまない」
 と、こうべを垂れた途端、
 「いい加減にしてくれないかな、お前は!」
 突然激昂した長義に、国広が瞬く。
 「どうした、いきなり・・・」
 「お前の!
 その卑屈さが気に入らない!
 俺と似た顔で、卑屈な態度を見せられる俺の気持ちを慮れ!!」
 「山姥切長義・・・」
 自身の発言が不用意だったかと、抜丸が間に入った。
 「申し訳ありません。
 皮肉を申したつもりではなかったのですが・・・むしろ、我が本丸で一番練度の高い山姥切国広を、主の元から離すわけにはいかないと・・・」
 「そんなことはどうでもいい!」
 苛立たしげに、長義が国広を睨む。
 「俺は、偽物くんの卑屈さが気に入らないだけだよ!
 ただの人間だって覚悟を決めたというのに・・・俺の写しなら、もっと堂々としていろ!」
 その言葉に、各務は息を飲んだ。
 肥後大海と柳・・・。
 実力は十分でありながら自信を持てず、今いる場所から逃げ出そうとしていた彼らに長義が厳しい言葉を投げかけていたのは、その向こうに山姥切国広を見ていたからではないだろうか。
 そして自分に対しても。
 大役を仰せつかりながら、同僚達に対して卑屈であった自分を、彼はどう見ていたのだろうかと思うと、顔が熱くなった。
 無言でハンドルを握る各務の表情に気づいて、抜丸が困惑げに眉根を寄せる。。
 「山姥切長義・・・。
 禿の言葉が足りなかったために、山姥切国広を叱るのはやめてください・・・」
 「いや、これは俺と偽物くんの問題だ。
 黙っていただけるかな」
 平家の重宝にも臆しない長義の姿に、国広は粗末な布を目深に引き下げた。
 「俺が・・・あんたみたいにできるわけがない。
 所詮は写しだからな・・・」
 「あぁそうだ!
 お前は俺の写しだ!」
 「山姥切さま?!」
 慌てる各務に構わず、長義は後部座席から手を伸ばし、国広が縋る布を乱暴に引き剥がす。
 「俺を模して造られたというのに、なんなんだお前は!
 俺の写しならきれいに決まっているだろうが!」
 「本歌・・・!」
 手をかざしてあらわになった顔を隠す国広に、更に怒鳴ろうとした長義の腕を抜丸が掴んだ。
 「おやめなさい。
 無理強いをするものではありません」
 抜丸が止めた隙に、国広は再び布を深く被る。
 その態度がまた、長義を苛立たせた。
 抜丸の手を振りほどき、バックミラー越しに国広を睨みつける。
 「俺の写しならきれいで当然だ!
 強くて当然だ!
 それ以上に俺はきれいで強いんだからな!
 わかったか!!」
 「まったく・・・」
 ため息をついた抜丸が、呆れ顔で首を振った。
 「禿のせいで喧嘩をされては困ります。
 しかし山姥切国広、あなたも、山姥切長義の言うことを理解しているのでは?
 素直な言い方ではありませんが、あなたが憎くて言ったのではないようですよ?」
 「いつも・・・言い方が悪いんだ、本歌は・・・!」
 嫌われているように思う、と言う彼に、抜丸がまた首を振る。
 「・・・以前、弊本丸のへし切長谷部が言っていました。
 信長公の手にあった頃は実戦刀であった。
 しかし、黒田へ行ってからは重宝として使われることはなくなったと。
 それは刀として、良きことか悪しきことか」
 考え込む国広に、抜丸は微笑む。
 「あなた達の前の主は、主君から拝領した刀を磨り上げ、その姿の写しを作ったそうですね。
 国広という名工は、本歌に引けを取らない刀を打ってくださった。
 期待通りの・・・いえ、期待以上の出来だったのでしょうね。
 そうとなればやはり、宝刀として崇め奉るべき拝領刀は仕舞って、あなたを手元に置いたことでしょう。
 でもそれは、長義としてはどうでしょうね」
 「おもしろくないと・・・思う・・・」
 座を奪ってしまった、と言う国広に抜丸は微笑んだ。
 「面白くないでしょうとも。
 座を譲ったあなたが、そのように自信がないのではね」
 「・・・・・・」
 「自分の写しなら、きれいでしかも、強くて当然。
 そう、言っているではありませんか。
 これほど美しく強い本歌がありながら、伯仲と言われるあなたが卑屈でいるのは、この禿にも理解できませんね」
 もしかして・・・と、抜丸は小首を傾げる。
 「伯仲の意味をご存じないでしょうか。
 伯は長兄、仲は次男のことですよ。
 兄弟牆に鬩げども、外その務りを禦ぐ(けいていかきにせめげども、そとそのあなどりをふせぐ)と言います。
 普段仲が悪く見えても、いざ共に戦わばその力は倍以上になる。
 まさに先ほどのあなた方ではありませんか」
 難しい言葉に唖然とする国広の隣で、各務が運転に影響のない程度に何度も頷いた。
 くすりと笑った抜丸は、隣で憮然とする長義を見遣る。
 「ねぇ、山姥切長義。
 この世は諸行無常・・・。
 これからもずっと、あなたたたちが一緒にいられるとは限らないのですよ?」
 各務と国広には聞こえないよう、抜丸はそっと長義に囁いた。
 「2205年まで、朽ちず共に在られたことを喜び、これからも共に在りたいならば、少しは素直になりなさい」
 目じりを赤くして睨み返す長義に、抜丸はにこりと笑って話題を変える。
 「また次回があるなら、本部との連絡手段をご周知ください。
 さすがの禿も今回は、折れるかと思いました」
 「・・・次回があれば、検討する」
 もう二度とあってたまるかと、ぼやく長義に各務が苦笑した。
 ・・・少なくとも自分は、長義と出会うことができて幸いだと思う。
 そんなことを言えば、きっと彼はそっぽを向くことだろうが。
 「応急処置をありがとうございます、山姥切長義。
 血みどろのまま帰っては、主を泣かせてしまいますから。
 山姥切国広も、助けてくださってありがとうございました。
 二振りの仮の主の方も」
 「あぁ・・・」
 「恐縮です」
 一人一人に礼を言った抜丸はにこりと笑ってこうべを垂れる。
 「では、禿はこれにて失礼いたします」
 その言葉と共に花の香りが舞い、抜丸の姿は溢れる花びらにかき消された。
 
 
 内閣官房国家安全保障局地下施設に戻った一行を待っていたのは、既に仕事を終えた政府の刀達だった。
 「随分と早かったな」
 長義が何気なく言うと、肥前忠弘が睨んでくる。
 「あ?
 別に怠けてねぇよ」
 「ちょっと、肥前くん。乱暴な言い方は良くないですよ」
 隣に腰かけた僧侶にたしなめられ、肥前は舌打ちした。
 その向かいには高校生だろうか、派手な髪色の小柄な少年が、引き攣った顔でこれ見よがしにふんぞり返っている。
 子供が頑張って虚勢を張っていることが見え見えだが、あえて指摘せず、隣に座る地蔵行平が長義を見上げた。
 「四国と中国には、審神者から捜索願が出ている男士がほとんどいなかったのですぐに済んだ。
 九州も滞りなく済んだそうなのだが・・・」
 と、地蔵はいじっていた端末を膝に置いた。
 「古今が・・・琉球楽しい、帰りたくないと言っているので、連れ戻しに行っていいだろうか」
 「それは一刻も早く行って欲しい」
 「俺も、先生から連絡がな・・・」
 「至急行って欲しい!」
 絶叫する長義に吐息して、肥前が立ち上がる。
 「先生を捕まえたら、一緒に関東の連中を始末していいか?」
 「帰還させる、と言ってくれ。
 地蔵も、古今を捕捉したのちは、共に手伝いを頼む」
 「承知」
 移動の手配をと命じるまでもなく、各務が車両と航空機の手配が済んでいることを二振りへ告げた。
 「これから北海道に行くのかい?
 ・・・僕、方向音痴なんだよ。
 東京の土地勘もないし・・・。
 肥前くんとはぐれたら、一人でここまで戻って来られないよ」
 不安げな僧侶に、肥前が鼻を鳴らす。
 「ずっと俺が一緒にいるから大丈夫だ」
 「本当だね?お願いだよ?
 肥前くん、いい子だよねぇ。
 ちょっと目つき悪いけど」
 「・・・うるせぇ」
 そっけなく言いながら、まんざらでもない様子の肥前に、地蔵と彼の仮の主である少年も続いた。
 「沖縄!
 行ってみたかったんだよ、俺!!
 しばらくいていいだろ?!」
 「却下だ」
 こちらは本当にそっけなく言って、部屋を出ていく彼らと入れ違いに、数珠丸が戻って来る。
 「複数のにっかり青江を帰還させてまいりましたよ」
 「複数の?」
 なんだと問うと、数珠丸がため息をつく。
 「せっかくこの時代に来たのだからと、おふ会なるものを開いていたそうで。
 少々説教をして帰しました」
 申し訳ない、と詫びる数珠丸に、長義がこめかみを引き攣らせた。
 各務がSNSを確認すると、数珠丸が赴いた場所は既に心霊スポットとして大いに盛り上がっている。
 「くそっ!!
 真っ先に情報抹消してやる!!」
 「にっかりのことだ、それを見越しての集まりだろうな」
 国広がため息交じりに言えば、数珠丸もため息をついて一礼した。
 「まことに申し訳ありません。
 各本丸の私に、きつく叱っておくよう伝えておきますので」
 「こ・・・怖かった・・・・・・!」
 すっかり怯えた様子の少年に苦笑した数珠丸は、震える身体を抱きしめてやる。
 「怖い思いをさせてしまって、申し訳ありませんでした。
 家までお送りしましょうね。
 それに・・・」
 と、少年の耳に囁いた。
 「とっておきのお守りを差し上げます。
 あなたに仏のご加護がありますように」
 美しい刀に抱きしめられ、加護まで約束されて、少年は耳まで赤くする。
 「山姥切長義、図らずもにっかりを全て帰した上に、他の政府顕現刀が別件を片づけてくださいますので、私にはもう、やるべきことがないようですが」
 数珠丸の言葉に、長義は頷いた。
 「あぁ、協力に感謝する。
 もう帰還してくれて結構だ。
 後ほど君の本丸には、政府から礼の品を送らせてもらう」
 「えぇ。
 ではまた、なにか要請がありましたらご連絡を」
 一礼した数珠丸が、少年と共に部屋を出ていく。
 その背を見送った国広は、気まずげな目で長義を見遣った。
 各務がはらはらと見守る中、国広がぽつりと言う。
 「・・・すまなかった」
 「なにが」
 高級な革張り椅子に座った長義は、腕と脚を組んで高慢に顎をあげた。
 「その・・・。
 本歌を不快にさせていたことに・・・だ・・・」
 「ふん。
 馬鹿なお前でも、ようやく理解できたと見える」
 と、国広はあっさりと首を振る。
 「いや、抜丸が言ったことはよくわからなかったんだが」
 「お前っ・・・!
 それでも俺の写しか!!」
 「そのつもり・・・いや、俺はあんたの写しだ。
 あんたを模して作られた。
 だから・・・・・・」
 恥ずかしげに目を逸らし、あらぬ場所を見つめながら、国広は片手で布を目深に引き下げた。
 「少しは・・・強さくらいは、自信を持っていいのかと・・・」
 その言葉に、長義はあからさまにため息をつく。
 「本当に馬鹿だ・・・」
 言うや、立ち上がった長義は足早に国広へ歩み寄り、その顎を掴んで上向かせた。
 「美しさもだ。
 俺を模して作られたお前が、容姿を卑下することは許さない」
 真っ赤になって声を失う国広に、鼻を鳴らして乱暴に突き飛ばす。
 「己の美しさを認めることが、そんなに難しいことかな」
 再び詰め寄った長義は、国広の布を無理矢理引き剥がした。
 「それぞれの本丸に下げ渡され、審神者の物になったお前達の中には、極めているものだって多いんだ。
 俺の写しがいつまでも、こんな布の下に隠れることは許さない」
 「・・・修行に出ろと?」
 「そんなことは、2205年に帰ってから勝手にするといい。
 だが今は」
 と、長義は二振りを気づかわしげに見守る各務へ向き直る。
 「記憶媒体の洗い出しと消去の作業に入るぞ。
 これからしばらく、寝られると思うなよ」
 「え・・・!」
 頭脳労働は苦手だと、及び腰の国広の両腕を、長義と各務が両側から掴んだ。
 「逃がすか」
 「後ほど、エナジードリンクを箱で持ってまいります」
 長義はともかく、各務にまで動きを封じられた国広は、憐れな声をあげながら、屍人と化した官僚達が蠢く無間地獄へと連行された。
 
 
 了

 
 
 
【あとがき】
長義と各務の事後処理案件、ひとまずのまとめです。
石切劔箭神社の上之社は、本当にやばい坂の上にありますので、お覚悟の上、ご参拝ください。
高齢女性に追い抜かれた話は実話です。
ちなみに、高橋が幼少期に小狐丸に叱られたのは、
『池の亀さんに車輪とモーターつけれてやれば、ウサギに勝てるんとちゃうか』
を実行したためでした。

抜丸が言う、
『兄弟牆に鬩げども、外その務りを禦ぐ』
(けいていかきにせめげども、そとそのあなどりをふせぐ)
とは、実は舞台刀剣乱舞・義伝で、政宗が秀吉に謁見するシーンのセリフです。
義伝では、『兄弟牆に鬩ぎ、会津出立が遅れた』ですが。

刀剣乱舞無双のように、普段仲が悪くても、共通の敵に向かえば他のペアより強くなる伯仲に萌えるのじゃないかと入れております(笑)

色々詰め込みすぎて、読みにくかったら申し訳ありません。
お楽しみいただければ幸いです。

その頃、南海先生は。/手鞠

*注意書き*

・映画黎明ネタバレあり

・オリジナル仮の主、映画黎明から着想した捏造あり

・映画本編、関係者等とは関係ございません。あくまで二次創作、妄想ですのでご承知おきを。

・舞台となる京都の描写は事実7割創作3割。ディス?いいえ、歪な愛情表現です。

・学術的なお話については創作99%なので突っ込まないでね笑。

それでも良いよ、という方は、
渋谷に居なかった南海先生がその頃、どこで何をしていたか、
歴史には残らない物語を、お楽しみください。

姑獲鳥 -長義と各務の事後処理案件02- / くれは

 ―――― 夜が来た。
 明かりが消えた病室では、入院着の女が横たわったまま、外を眺めていた。
 ―――― 今夜もまた、あの化け物が・・・姑獲鳥(うぶめ)が来る・・・・・・!
 息をひそめて闇から目を逸らす彼女の耳を、鋭い風切り音が叩く。
 きつく目を瞑り、食いしばった歯が恐怖にカチカチと鳴った。
 しかし、続いて聞こえてきたのは、ぱたぱたと軽い子供の足音だ。
 ほっとして目を開けると、明かりの消えた病室に並ぶベッドの縁から、ぴょこぴょこと跳ねるような足取りでやって来る子供の頭が覗いていた。
 「風邪ひいちゃいますよ?」
 言うと彼は、細く開けた窓から吹き込む夜風に目を細め、背伸びをしながら閉めてくれた。
 「ありがとう」
 微笑むと、振り返った彼はにこりと笑って、ベッドの傍らにある椅子に、ちょこんと座る。
 「早く元気になってくださいね、母上。
 お外に出られるようになったら、僕とお庭で遊びましょう!」
 床に届かない足をぶらぶらと振る子供に頷いて、ふわふわの頭をゆっくりと撫でてやった。
 
 
 「帰れ」
 目を吊り上げた監査官の、斬りつけるような声を柳に風と受け流し、彼はふわふわと笑った。
 「もちろん帰るよぉ。
 おうちはすぐそこだもの」
 と、髭切は表に面した窓を指す。
 道を挟んだ向かい側には、天満宮の鳥居があった。
 「俺は少し遠いが、まぁ、近所と言えなくもない」
 ふわふわと湯気をあげる湯豆腐の様子を見ていた膝丸が、お玉を取り上げる。
 「兄者、もういいようだ。
 長義も食べていけ」
 「うるさい、自分の本丸に帰れ」
 「まぁまぁ、山姥切長義さま」
 別のテーブルに着く老爺が、穏やかな声をかけてくる。
 「うちの御神刀さまですし、私が責任を持ってお返ししますから」
 天満宮傍の湯豆腐屋に集っているのは、9月の事件を解決に導いた源氏の重宝達、そして彼らの仮の主であった倉橋だった。
 「せっかく現世に来たのに、満喫できなかったからさぁ。
 来ちゃった!」
 膝丸によそってもらった湯豆腐に目を輝かせる髭切へ、長義は舌打ちする。
 「気軽に言ってくれる・・・!」
 「兄者、着物が汚れないように、この布をかけてくれ」
 立ち上がった膝丸が髭切の背後に回り、首にナプキンを掛けた上、袖の端を帯に挟んで両手を自由にしてやった。
 「ねぇねぇ、うちの弟、気が利くでしょぉ?」
 「は?
 うちの各務も負けていないが?」
 食事の邪魔になる羽織は既に衣文掛けにかけて別室にあり、ナプキンは襟元に、両袖はコーリンベルトで摘まんだ上、背後に回して留めてある。
 「皆さんが集まれば目立つからと、店を貸切ってくださっていますしね」
 彼らの他に客がいない店内を見回して、倉橋はにこりと笑った。
 「なぜだ、地味にしているだろう」
 不快げに言った長義は今、濃紺の袷(あわせ)に黒とグレーの縞模様の帯を締め、確かに色合いとしては地味な部類だ。
 襦袢の襟も、今は脱いでいる羽織もグレー。
 唯一の彩りと言えば、羽織紐の中心に据えた青い飾り玉くらいだが、きれいに撫でつけた白銀の髪と深い湖の底を思わせる青い瞳が、地味でいようとする彼の、全ての努力を無駄にする。
 対面する源氏の重宝達は、これは目立たない努力など端からするわけもなく、白地に黒のアクセントを入れた髭切の装いはシンプルながらも華やかで、黒地に紫のアクセントを入れた膝丸は渋すぎない落ち着きを出していた。
 「各務さんも、和装でいらっしゃればよかったのに」
 「いえ、私は・・・」
 着流し姿の倉橋に言われて、各務は恐縮するように猫背を丸くする。
 「装束なんて、どうでもいいじゃない。
 お豆腐おいしいよ?」
 にこにこと頬張っていた髭切は、『そうだ!』と、隣の膝丸を見遣った。
 「今度、燭台切と歌仙を連れてこよう!
 本丸でもこれが食べられるよぉ!」
 「あぁ、それはいい」
 「不可だ!」
 頷いた膝丸にすかさず、長義が声をあげる。
 「うちの祖を巻き込むな!
 そもそもお前たちは、俺がなぜ2012年から離れられずにいるのか、事情を知っているのだろうに!」
 「あぁ、帰れない子がいるんだってね」
 あっさりと言って、髭切は小首を傾げた。
 「これが公になると、まーた政府の人間の首が飛ぶんじゃない?」
 楽しそうに笑う髭切に、膝丸も頷く。
 「非常事態だからと言って、顕現できる条件を提示しなかった政府の責任だろう。
 俺達の知ったことではない」
 「あぁ、おっしゃる通りだ!
 しかし!!」
 寄せ豆腐に舌鼓を打つ髭切を、びしぃと指さす。
 「事後処理を押し付けられた俺に、これ以上の厄介ごとを持ち込むな!!」
 
 
 「次は抹茶すいーつ三昧したい!」
 などとぬかす髭切たちと別れた長義は、こめかみを引き攣らせながら、各務が表に回した車に乗り込んだ。
 「お・・・お疲れさまでした。
 源氏の二振りのことは、本日中に本丸へお戻り頂くよう、倉橋さんにお願いしておきましたので・・・」
 「いくら天満宮の御神刀だからと言って、甘やかしすぎだ!」
 舌打ちした長義ははっとして、バックミラー越しに各務を見遣る。
 「・・・まさか、三日月やへしきり長谷部まで再訪していないだろうな?!」
 睨みつけると、各務は運転席で、気まずげに身じろぎした。
 「三日月さまはいらしてませんが・・・長谷部さまは、お詫びの菓子折りを持って伺ったと聞いています」
 「せっかく記憶を消したのに、余計なことをするな!!」
 実弦も突然知らない男に詫びられ、菓子折りを押し付けられて、大層驚いたことだろう。
 しかし、
 「その点はご心配なく。
 刀剣男士の記憶はなくても、国家安全保障局に協力した、という記憶は残っていますので、私から『お怪我をさせてしまったお詫びとお見舞いです』と連絡を入れておきました」
 卒のないサポート体制には、長義も思わず感心した。
 「・・・だったらいい。
 目的地へ向かえ」
 窓の外を見遣った長義は、観光客が行きかう街を眺める。
 「京はいつの時代も賑やかだな」
 「はい。
 世界中から観光客が来ていますが・・・多すぎる観光客のために、色々問題もある現状です。
 その点は徐々にすり合わせていかなければなりません」
 「ふん、まどろっこしいものだな」
 一気に解決できないのはもどかしいが、摩擦を生まないためには各務の言う方法が正しいのだろう。
 「しかしさすがに、これから行く場所はここまで騒がしくないだろうな」
 源氏のせいで寄り道をさせられたが、今回の長義の目的は『病院に現れる子供の幽霊』だ。
 本当に怪奇現象なら放置するが、刀剣男士が行方不明になった本丸の審神者が、半狂乱になって政府に提出した情報と多くが合致する。
 「迎えの男士も、既に到着しているとのことです」
 「わかった」
 先日の明石のように鬱陶しくなければいいと思いながら、長義は待ち合わせのホテルへ向かった。
 
 
 ホテルのラウンジに入った瞬間、長義はひどい頭痛をこらえるように眉根を寄せた。
 「予想はしていたが、明石より厄介そうなやつがいる・・・」
 「なんのことですかな」
 詰め寄ってきた一期一振を押しのけ、長義は一人掛けソファの前にしょんぼりと立つ青年へ目をやる。
 「仮の主か」
 「は・・・はい、柳と言います・・・」
 長義の鋭い視線を避けるように、彼は深々と頭を下げた。
 「数日前、秋田がいる病院の前でうろうろしていたので捕まえました」
 「不審者かな?」
 「いや・・・あの・・・」
 長義の冷ややかな声には、慌ててかぶりを振る。
 「研修医・・・です・・・・・・」
 柳というよりは枯れたススキのように細く、頼りなげな青年は、うなだれるように再び頭を下げた。
 と、
 「柳さま、この度はご足労頂きまして、ありがとうございます」
 長義の影から進み出た各務が、そっと名刺を差し出す。
 「私、内閣官房国家安全保障局の各務と申します。
 ご協力感謝いたします」
 「あ、はい・・・・・・」
 両手で名刺を受け取った柳は、おどおどした目で長義と一期一振を見比べた。
 「あの・・・一期さんから、大体の事情は聞きました。
 あの病院に出る子供の幽霊は一期さんの弟で、正体は刀剣男士って言う、刀の付喪神だって」
 「へぇ・・・。
 素直な人間だね。
 そんなにもあっさり信じるものかな?」
 ラウンジに設置されたテーブルを囲み、着座した長義の問いに、柳は頷く。
 「子供の幽霊・・・いえ、秋田くんの姿は僕も見ましたから。
 看護師さん達は、『仕事の邪魔をしないならほっといていい』って気にしてませんでしたけど・・・」
 「それはまた剛毅な人間達だな」
 呆れつつ言った長義は、注文した茶を運んできたスタッフがサーブする間、口を閉じた。
 今の長義は黙っていれば、老舗呉服店の若旦那といった風情だ。
 対面する一期一振も、仕立ての良いダークグレーのスーツの胸ポケットに白いチーフを覗かせ、シルクのネクタイは紺地にシルバーグレーとライトブルーの差し色を入れた、上品で落ち着いた洋装である。
 秘書らしく控える各務と、新人研修中にも見える緊張顔の柳に商談中と察したのか、スタッフは手早くセッティングして去って行った。
 ソーサーごとティーカップを取り上げた一期一振は、紅茶へため息をこぼす。
 「秋田は刀剣男士というより、守り刀としての本能に引かれてしまったようなのです」
 「ん・・・?
 つまり、本丸で受けた任務外のことをしている、と言うことかな?」
 帰還できなくなったのでは、と問う長義に、一期一振は眉根を寄せて頷いた。
 「秋田は、この京都に本体がありますし、仮の主にも会えて、顕現することはできたのです。
 ただし仮の主になったのは、療養中で動けない女人でした」
 「原 志津子(はら しづこ)さん。
 先月下旬に道端で動けなくなったために救急搬送。
 切迫早産のため、絶対安静の患者様です」
 柳の補足に、長義が頷く。
 「あの時は念い(おもい)を奪われ、意識を失って病院に運ばれた人間も多かったからな。
 鶴丸国永のように、入院患者が仮の主になったものは少なくないが、病床から動けないとなると、秋田の動ける範囲も限られたということか」
 2012年に顕現した刀剣男士は、仮の主と離れると実力を発揮することはできない。
 誉をあげ損ねたのは残念だろうが、全体の結果として、この時代に攻め入った時間遡行軍は殲滅できている。
 「俺としてはおとなしく帰ってほしいのだが・・・」
 「えぇ、我が主も、信じて送り出したのに帰ってこないと半狂乱でして・・・」
 特にかわいがっていたからと、一期一振はまたため息をついた。
 「しかし、柳殿から志津子殿のご様子を伺いまして、納得しました。
 あの子は志津子殿が回復されるまで、お傍にいたいのでしょう。
 それは粟田口の短刀が守り刀として重宝されたための本能と言うべきですが・・・ただ、このままではあの子自身に害が及びます」
 既に、限られた時間しか顕現出来なくなっている、という一期一振に長義は頷く。
 「先日の蛍丸がそうだった。
 あちらの場合は時間軸のはざまに落ちてしまい、何かの拍子でこちらの世界に姿を現す、というものだったが、秋田の場合はこちらでの姿を保てなくなっているということかな」
 ならば、と、長義はコーヒーカップを取り上げた。
 「自身の本丸に帰せばいいだろう。
 なにを迷うことがある」
 「それができたら、いちいちご足労願わないのですよ、監査官殿」
 にこりと笑った一期一振に、各務と柳はなぜか震え上がった。
 例えるなら、白刃を喉元に突きつけられた感触だ。
 「ご協力をお願いしたく」
 「・・・・・・承知した」
 今にも舌打ちしそうな顔で、長義は頷いた。
 
 
 「あの・・・一期一振さまとは、どのような・・・・・・」
 先般の事件から何振りかの付喪神とはまみえたものの、あれほど冷たい気を発する刀はいなかったと、未だ怯える各務に、長義は鼻を鳴らした。
 宿泊用に取ったホテルの一室でスーツに着替え、脱いだ和服を各務へ渡す。
 「あいつの主は、あまたいる審神者の中でも屈指の実力者だ。
 現在政府が管理する二十一の国、その中でも五箇伝と称される古い五国の、古い審神者・・・」
 忌々しげに舌打ちした長義の顔色を窺いながら、各務は彼の和服を衣文掛けに吊るし、帯を伸ばした。
 そんな彼に、長義も独り言のように続ける。
 「歴史修正主義者との戦端が開いた当初、時の政府が予想した敵の全数は八億四千万」
 「そんな・・・!途方もない・・・・・・!」
 日本の人口の約7倍である。
 震える各務に、しかし、長義はため息をついた。
 「そうだ、途方もない・・・。
 だがそれが正しければ、奴が所属する本丸をはじめ、同等の実力を持つ本丸だけで既に制圧できていた」
 「そんな本丸が?!」
 驚く各務に、長義は苦々しく頷いた。
 「あの本丸へ赴いた監査官が報告をあげていた。
 戦績を見る限り、当初の予想が正しければ3年で制圧できていたはずだと。
 所属するすべての刀剣男士の戦力は最大限まで高められ、当然、審神者自身の能力も最高値だ。
 そんな本丸に反乱を起こされてみろ。
 時の政府などひとたまりもない」
 「そ・・・そんな本丸の審神者様を・・・半狂乱に・・・・・・」
 思っていた以上の非常事態に、各務が青ざめる。
 「一期の様子を見る限り、相当腹に据えかねているな。
 早急に事態を収めなければ、激怒した審神者が何をやらかすかわかったものじゃない。
 面倒だが、今夜中に片づけるぞ」
 細い銀縁の眼鏡をかけた長義に、各務はぶんぶんと頷いた。
 
 
 「職員用の出入り口はこっちです」
 先に立って案内した柳は、しかし、ドアの取っ手に手をかけたまま、固まってしまった。
 「どうした、見習くん。
 鍵でもかかっているのか?」
 動けない柳の背後から長義が声をかけると、彼は大きく息を吸ってドアを開ける。
 先に長義たちを通してから、最後に入ってドアを閉めた。
 しかし、やはりそのまま動けずにいる彼の俯いた顔を、一期一振がのぞき込む。
 「いかがされましたか?」
 優しく問えば、柳は泣きそうな顔をあげた。
 「僕・・・研修中なのに・・・ここにはしばらく来られなくて・・・・・・」
 「それはもしや、秋田のせいでしょうか。
 幽霊だと思っていたそうですし、怯えさせてしまいましたかな?」
 苦笑する一期一振に、柳は首を振る。
 「それ以上に怖い・・・・・・!」
 「それは!俺の!ことかな?!」
 「ひぃっ!!」
 悲鳴を上げて固まった柳だけでなく、各務もまた、驚いて壁に背をぶつけてしまった。
 薄暗い廊下の先にいたのは、鬼の面をかぶり、仁王立ちになった男だ。
 訝しげに見つめる長義と一期一振の元へ、彼はスキップしながら寄ってきた。
 「柳先生に・・・君たちは、そうだ、研修医たちだ」
 微笑んだ一期一振によって勘違いさせられた鬼が、ばたばたと手を振る。
 「ほら!
 回診に行くよ!
 早く着替えて着替えて!」
 
 
 「さっきの男はなんなんだ」
 更衣室に案内された長義が、柳が差し出す白衣を羽織りつつ尋ねると、彼はしおしおとうなだれる。
 「指導医の神崎先生です。
 すごく優秀な小児科医です」
 「あれが?」
 「鬼の面をかぶって、スキップしておられましたな」
 訝しげな長義と苦笑する一期一振に、柳は頷く。
 「病気の子供たちはストレスを抱えていますから・・・和ませるための方法だそうです」
 「あの面がどういった効果をもたらすのか知らないが、秋田が出てくる時間まで、情報収集はしておかなければ」
 既に各務は、院長はじめ事務系のスタッフへの情報収集に走り回っている。
 「ひとまず、あの鬼面の御仁について行ってみますかな。
 面白いことがあるかもしれない」
 一期一振に促され、三人は更衣室を出た。
 
 
 「具合悪い子はいねがー!
 薬飲んでない子はいねがー!!」
 大声をあげて神崎が病室に乗り込むと、ベッドの上の子供達はきゃあきゃあと歓声をあげた。
 「なまはげだったのか・・・」
 呆れる長義は、死角から飛んできたゴムボールを軽々と避けて掴む。
 「俺を狙うとはいい度胸だ。
 強制的に眠らされたくなければ、布団をかぶっておとなしくしていろ」
 肩越しに睨みつけた子供はしかし、怯むどころか隣のベッドの子供と協力して、次々にゴムボールを投げつけてきた。
 「いい加減に・・・!」
 「これはこれは、元気な子供達ですな」
 微笑んでベッドに歩み寄った一期一振が、両手にゴムボールを持った女児の頭を撫でる。
 「お嬢様、どうぞお静かに。
 今日はお元気そうですが、どこか痛いところはありますかな?
 お薬はちゃんと、お飲みになったでしょうか」
 優しい笑顔で迫られた女児は、途端にもじもじとして布団の中に隠れてしまった。
 「おやおや、こちらは天照大御神でおわしたか。
 ならばこちらは須佐之男命であられるかな?」
 ゴムボールを風船の剣に持ち替えた男児が斬りつけてくると、一期一振は大仰な仕草でしゃがみ込む。
 「これは勇ましくお強いお子であられる。
 きっと、苦い薬もお飲みになったことでしょう」
 ねぇ?と尋ねられた男児は、顔を真っ赤にして、枕の下から薬の袋を取り出した。
 「これは勇気のある行いですな。
 では、私が苦くなくなる方法を教えましょう。
 よいですかな?
 これは、勇気あるものだけが知る方法ですぞ?」
 わざと周囲にも聞こえるように言えば、子供達が枕や棚の後ろから薬の袋を取り出して、一期一振の元へ寄ってくる。
 「なるほど、勇者がこんなにも。
 では、お好きな味を選んでください」
 言うや、一期一振は白衣やスラックスのポケットから、次々とゼリー、ココア、果汁のジュースなどを取り出した。
 「いつの間に・・・!」
 「病床のお子様にお会いすると聞いたのですから、当然の準備でしょう」
 驚く長義に、一期一振は余裕の笑みを見せる。
 「ちなみに、神崎殿には既に混合の許可を頂いております」
 こんなところでも実力の差を見せつけられ、長義は悔しげに眉根を寄せた。
 
 
 「粟田先生、すごいね!
 あの部屋は重篤な患者がいない分、やんちゃな子ばかりで時間がかかるのに、いつもの半分で終わったよ!」
 鬼・・・いや、なまはげの面を外して、神崎が嬉しそうに言う。
 素顔の彼は、実年齢よりは若く見える、ごく普通の中年男性だった。
 「ありがとうございます。
 うちの弟達はもっとやんちゃですから、あの程度なら楽なものです」
 にこにこと笑う一期一振に何度も頷き、神崎は長義の腕を叩く。
 「長船先生は全然動けてなかったけど、子供は苦手かな?」
 「苦手・・・というほど、慣れていないだけです」
 どこかの本丸に所属していれば、否応なしに短刀と交流したのだろうが、今の長義は政府の刀剣で、やや交流がある長船の一派でも最年少だ。
 謙信景光は短刀ではあるが、あの部屋にいた猛獣達ほど物分かりは悪くない。
 「ま、研修してたら嫌でも慣れるよ!
 それで、柳先生はまだ病室には入れないかな?」
 廊下で身を縮めていた柳に声をかけると、彼はびくりとして頷いた。
 「すみません・・・・・・」
 「まぁ、あんなことがあったし、すぐに切り替えろとは言わないけどね」
 慰めるように、神崎は柳の肩を叩く。
 「もうあんなことがないように、精一杯あの子たちのお世話をしなさいよ」
 「はい・・・・・・」
 うなだれてしまった柳の顔を、神崎が覗き込んだ。
 「先生もかぶる、なまはげ?
 みんなが俺みたいになったら病院が地獄絵図だけど、たまにはいいかもよ?」
 「自覚はあるのか」
 思わず呟いた長義に、神崎はにんまりと笑う。
 「こんなことやんのは俺くらいだし、許されるのは小児科くらいよ。
 万年不採算部門だけどさ、必要とされる科でもあるでしょ。
 小児科はいいぞ!おいでよ小児科!」
 特に、と、神崎は一期一振に迫った。
 「粟田先生、才能あるよ!
 初回からあれはガチですごい!
 小児科は君を待っている!!」
 「えぇ、候補に入れておきます」
 にこやかに当たり障りのないことを言う一期一振に、長義は鼻を鳴らす。
 「じゃ!
 次、行っといでキッズルーム!」
 「は・・・?」
 問い返す間もなく、長義は次なる地獄へ追いやられた。
 
 
 「この俺を・・・甘く見るな!」
 いつもの刀に比べて頼りない風船の剣を持った長義は、半身の体勢で敵に向き直った。
 手に手に武器を持った小鬼の大軍である。
 中にはゴムボールを抱え、次々に投擲してくるものもいる。
 いくつかは避けたものの、一度弾き飛ばそうとして剣の方が割れたこともあり、慎重にならざるを得なかった。
 「たああ!!」
 打ち掛かってきた一人を避け、更に一人の剣を受け止める。
 それをはじき返すと同時に、背後に迫った剣は身を翻して受け止め、更にはじき返す。
 「おさふねせんせーすげー!!!!」
 興奮した小鬼たちは、怯むどころか更に凶暴さを増し、次々に襲い掛かってきた。
 「ここからは本気だ!覚悟しろ!!」
 突きを交わし、横薙ぎに迫る剣を受け止め、はじき返して更に投擲されたゴムボールを紙一重で避ける。
 「あんなにむきになって、可愛いですな」
 襲い来る子供達と本気で戯れる長義に微笑み、一期一振は部屋の隅でちらちらとこちらを窺う女児を手招きした。
 しかし、恥ずかしげに首を振る子に、自ら歩み寄る。
 足に何人も子供達を絡めつつ近寄ってきた一期一振から隠れようとする女児の手を、彼はそっと取った。
 「どうしました?
 どこか痛いところでもありますかな、お嬢様?」
 真っ赤になって俯いた子が、点滴の管に繋がれたもう一方の手を背に隠す様に、一期一振は微笑んで頭を撫でてやる。
 「まだ小さいのに、大変ながんばり屋さんです。
 恥ずかしくなんてないですよ。
 病気が治れば、傷も消えるでしょうから」
 「ほんと?
 むらさきのいろ、きえる・・・?」
 うるんだ目で見つめてくる子に、一期一振は大きく頷いた。
 「ええ、もちろんです。
 病気が治るまで、がんばりましょうね」
 「うん・・・!」
 隠していた手をそっと差し出してきた子にまた頷き、包み込んでやる。
 「いたいのいたいの、飛んでいけ」
 「あわたせんせー!わたしもー!」
 「ぼくもー!!」
 「はいはい、順番ですよ」
 きらきらした目の子供達に囲まれて嬉しげな一期一振へ、長義は声を荒らげた。
 「お前っ・・・!
 楽をしてずるいぞ!!」
 「話術の差ですな」
 笑みを向けた先では、長義が子供達にしがみつかれ、動きを封じられながらもゴムボールを避け、風船の剣を受け流している。
 「楽しそうで何より」
 「お前が眼鏡かけろ!!」
 思わず力を込めてしまい、風船の剣が音を立てて割れた。
 「おやおや。
 ちょーぎまん、新しい剣ですぞ!」
 「くそっ!!」
 一期一振が投げてよこした風船の剣を宙で掴んだ長義は、白衣を翻して斬りかかってくる小鬼の大軍に向き直った。
 
 
 「・・・・・・・・・渋谷での乱闘より疲れた」
 「お・・・お疲れ様です・・・」
 病院1階にあるカフェテラスでテーブルに突っ伏す長義に、各務が書類で風を送る。
 夕食の時間だからと、それぞれの病室に戻って行った子供達からようやく解放された長義は、一期一振に抱えられるようにしてここまでやって来た。
 「他の研修医たちは、この後また雑用や書類の作成で忙しいそうですよ。
 刀剣男士ともあろうものが、この程度でへばっていては、物笑いの種ですな」
 くすくすと笑う一期一振を、長義が上目遣いに睨む。
 「お前は女児たちとおしゃべりしていただけだろう!」
 「遊んでいたあなたとは違い、情報収集をしていましたよ」
 「俺に小鬼たちをけしかけた、の間違いだろうが!!」
 声を荒らげる長義の前に、皿が置かれた。
 「お腹すいたの?
 パン食べる?」
 「そしてなぜここにいる!!」
 いつの間にか同じテーブルにいた髭切に、長義の目が吊り上がる。
 「小腹が空いたから」
 答えになっていない返事をする髭切を怒鳴りつける前に、ドリンクを運んできた膝丸が割って入った。
 「山姥切長義、お前は現在の京を知らない」
 「なんだと・・・?!」
 何かあったのかと、座りなおした長義に、膝丸は真面目な顔で頷く。
 「ここは日本屈指のパン好きの地。
 有能な職人が腕を競い、人気店では開店間もなく売り切れる。
 だが、入手困難なパンを食せるのが!この!卸先!!」
 「職員と見舞客しか来ないからね。
 買えるんだよ、ここなら!人気のパンが!」
 「本当に今すぐ帰れ!!」
 仲良く並んでパンを頬張る源氏の重宝たちに、長義はまた声を荒らげた。
 「まぁまぁ、山姥切長義。
 柳殿が怯えていますから、お静かに」
 一期一振の声に見遣れば、各務と並んで座る柳が、枯れ果てたススキのように細くなってうなだれている。
 「・・・そもそも、あの猛獣どもの相手は君の仕事じゃないのか?
 なぜ部屋に入ってすら来なかった。
 病室に入れない事情と同じなのか?」
 長義が苦々しげに問うと、彼は首をすくめて震えだした。
 「まったく、尋問じゃあるまいし・・・。
 柳殿、胸につかえていることがおありなら、聞きますよ?」
 ちなみに、と、一期一振は仮の主へ向けて微笑む。
 「ここにいるものは各務殿を除き、人ではありませんので。
 人形にでも話しかけるように、独り言を呟くといいですよ」
 「しゃべる人形かも」
 くすくすと笑う髭切を上目遣いに見て、柳はぼそぼそと話し出した。
 「・・・小児科の研修に入って初めての日・・・でした・・・・・・。
 朝に、風邪を引いたって受診にきた子がいて・・・。
 風邪を引いた以外は、元気に見えたんです・・・・・・ほんとに・・・元気に・・・・・・」
 なんの基礎疾患もない、普通の子供。
 熱が高くなると少しぐったりしていたが、来週の遠足には行けるかと聞いてきた。
 「・・・小学生の遠足には定番の山で、念のためにあったかい格好で行くんだよ、って言ったら、わかったって、頷いていたのに・・・・・・」
 夜になって、意識がない状態で運ばれてきた。
 手を尽くして処置しても、小さな命は削られて・・・朝には冷たくなっていた。
 「急性脳症・・・です。
 基礎疾患がない子供でも発症する・・・。
 原因の一つはウィルス感染みたいですが、あんな風邪で・・・まさか、あんなにあっさり・・・・・・!」
 ショックで立ち上がれなくなった柳を、同期の研修医たちは慰めてくれたが、彼ほどにショックを受けているようには見えなかった。
 「僕も・・・覚悟は決めていたつもりでした。
 でも、甘かったです・・・。
 この時代、亡くなるのは高齢者や事故の被害者くらいだって・・・高をくくっていたんだと思います。
 学校の成績が良かったから、なんとなく医学部に入りましたけど・・・親兄弟が医者の家で育った同期達とは、最初から覚悟が違いました」
 神崎に言わせれば、『覚悟ガンギマリの連中』だそうだ。
 特に小児科医が戦う相手は、病気だけではない。
 時には子供の親や、行政とも戦う。
 神崎の言う、『俺で気の強さは最弱レベル』はさすがに嘘だと思うが、柳は彼らの切り替えの早さについていけなかった。
 「なるほどそれで、病院に入ることもできずにうろうろしていたわけですな」
 頷いた一期一振は、柳の背を慰めるように撫でてやる。
 「華岡青洲の例もありますし、さじの家に生まれたものの覚悟が違う、という話には同意しますな。
 しかし」
 うなだれた柳の顔を覗き込んで、一期一振は微笑んだ。
 「あなたは、人の命を助けるすべを学んでいらっしゃる。
 もし、あの時あなたほどの知識を持つものがいれば・・・救われるものもいたかもしれませんな」
 「あの時・・・って・・・?」
 顔をあげた柳を見る一期一振の目が陰る。
 「大坂城・・・。
 あの場所で亡くなったものの多くは、自ら命を絶ったものでした。
 ただ、そのうちの幾人かは死にきれず、炎にあぶられる苦しみと恐怖に晒されていた・・・。
 あの時の私に、太刀を薙ぐ手があったなら・・・彼らを苦しみから解放してやれたことでしょう」
 しかしそれは、死を与えることだと、一期一振は呟いた。
 「私達は、そのような救い方しかできない。
 ですがあなたは別のすべをお持ちでしょう?」
 頷きかけた柳に、
 「そうだねぇ。
 神剣の中には、病気治癒の能力を持ってるのもいるけど、ほとんどは斬るだけかなぁ」
 「慈悲の剣というものだ。
 苦しみを長引かせるのは気の毒だからな」
 と、髭切と膝丸が余計なことを言う。
 「・・・空気が読めない重宝はお帰りを」
 笑顔でありながら、冷ややかな気を発する一期一振に、また各務が震え上がった。
 「言われなくても、定崇(さだたか)が戻ってきたら帰るよぅ」
 「ここで、彼の孫娘が養生しているのだ。
 定崇の孫娘の事は生まれる前から知っているし、兄者も改めて刀の下をくぐらせたいと言うから、共に来たのだ」
 髭切の、粉砂糖まみれになった手を拭いてやった膝丸が、出入り口を見遣る。
 「噂をすれば影だ。
 兄者、行こう」
 「うん。
 じゃーまたねー!」
 「早く帰れ!!」
 テーブルを叩いて怒鳴る長義を、各務がおろおろとなだめた。
 
 
 「なんで次から次と!
 嫌がらせか!
 俺の邪魔をしているのか!!」
 「誰もそんなつもりはありませんよ。
 少なくとも私は、情報収集する間、小鬼達を引き付けていただきたかっただけです」
 カップからティーバックを取り出して、一期一振は首を傾げた。
 「あまりいい茶葉を使っておりませんな」
 一言文句を言ってから、一期一振は『さて・・・』と、同席の面々を見回す。
 「お嬢様方に聞き込みをした結果、うちの弟が最高に可愛いことが判明しました」
 「なに言ってるんだ」
 思わず真顔になった長義に、一期一振は嬉しげに微笑んだ。
 「秋田は長い時間この場にいられないだけで、顕現すれば普通に肉体を持ちますのでね。
 お嬢様方と遊ぶこともできるのですが、皆様が口を揃えておっしゃるのが、可愛い、親切、頼もしい、大好き」
 紅茶のカップを持ったまま、一期一振は満足げに頷く。
 「怖い目に遭ったお嬢様方からは特に好評でした。
 この病院にはお化けが出るのだと。
 それを秋田が退治してくれたと、熱心に話してくださいました」
 さすが私の弟、と、自慢げな一期一振に長義が舌打ちする。
 「もっとましな報告をしろ」
 と、各務に言えば、彼はクリアファイルに入れていた書類を取り出した。
 「院長はじめ、スタッフの方々と、看護師の方々にお話を伺ってきました。
 特に看護師の方々はよくご存じで・・・その・・・・・・」
 ちらりと、一期一振を見遣る。
 「総じて言うなら、皆さん『秋田くんマジ天使』と・・・・・・」
 「ほーぅらね?」
 気に障る得意顔をされて、長義がこめかみを引き攣らせた。
 「あっ・・・あの・・・!
 秋田さまは、幽霊と違って人や物に触れられますから・・・」
 機嫌の悪い長義の顔色を窺いつつ、各務は続ける。
 「寝たきりで動けない方の元へ欲しいものを運んでくれたり、点滴でこわばった腕をもんでくれたり、眠るまで傍で話し相手になってくれたりと・・・お忙しい看護師の皆さんに代わって、甲斐甲斐しくお世話をしてくださるそうで、幽霊でもいいからずっといて欲しいとご希望です」
 それに、と、各務は印刷した一覧を差し出した。
 「現在入院中の方々にもお尋ねした、怪異の一覧です。
 日時などは曖昧なところがありますが、消灯時刻を過ぎると多く発生するそうです」
 並べられた事象は、壁から落ち武者のような化け物が現れた、床からいくつもの手が生えて足を掴まれた、天井から刀を突き付けられたなど。
 「しかし、このような怪異に遭うたびに、秋田さまが現れて退治してくれたと。
 秋田さまがいなければ眠れないとおっしゃる方までおいでです」
 各務の言葉に、柳もぶんぶんと頷いた。
 「僕も見ました・・・!
 僕が病室に入れないでいる時・・・子供達が寝ている上を、骨のような・・・そう、刃を咥えた、蛇か魚の骨のようなものが飛び回っていたんです。
 腰を抜かしてしまった僕の傍を走り抜けて、秋田くんがあっという間に全部退治してしまって・・・」
 その上、と、柳は頬を染める。
 「大丈夫ですか、って、心配してくれた顔がすごく・・・可愛かったです」
 「ふふ・・・。
 秋田がいい子で、皆さんに愛されているのは当然ですが、我が主もまた、あの子を愛しているのですよ。
 まずはあの子の安全と、主の心の平安のため、我が本丸に戻ってもらいませんとね」
 よろしいか、と、一期一振は柳を見遣った。
 「はい・・・。
 僕も、秋田くんには・・・その、ずっといて欲しいですけど・・・・・・」
 しょんぼりと眉尻を下げて、一期一振を見上げる。
 「お兄さんの所に、返してあげなきゃですよね」
 テーブルに手をついて立ち上がった柳に、一期一振は嬉しげに笑った。
 「消灯時間にはまだ間がありますが、そろそろ参りましょうか」
 カップを置いて立ち上がった一期一振に、長義は舌打ちする。
 「くそ・・・!
 またあの猛獣どものいる場所に戻るのか・・・!」
 唸る長義に、しかし、柳は首を振った。
 「原さんがいらっしゃるのは産科です」
 「だからなんだ」
 「小児科とは別の科、別の場所です」
 「は・・・?」
 長義が、思わず目を丸くする。
 「・・・待て。
 じゃあなぜ俺は、あの猛獣どもの世話をさせられていたんだ?!」
 「成り行き・・・ですね・・・」
 「そんな成り行きあるか!!!!」
 激昂して椅子を蹴った長義を、各務はおろおろしつつも懸命に宥めた。
 
 
 「せ・・・先月までは僕、産科で研修していましたけど・・・。
 もう、小児科に行ってますから・・・あの・・・・・・」
 むやみに入っちゃだめだと言う柳に微笑み、一期一振は遠慮なく産科へと向かった。
 すれ違う看護師やスタッフ、医師の気を逸らして、誰何も受けずに原志津子の病室へ入る。
 「もうじきですな」
 携帯端末の画面に表示された時刻に、一期一振は頷いた。
 「柳殿、志津子殿を外に出していただけますかな?
 危険がないように」
 「は・・・はい・・・!」
 遠慮がちに部屋へ入った柳は、各務に手伝ってもらいながら、眠っている志津子を起こさないよう、静かにベッドごと廊下に移動させる。
 「秋田、もういいよ。
 出ておいで」
 「はいっ!」
 時間軸の狭間から出てきた秋田は、きらびやかな戦装束を纏った手に自分の身体よりも大きな大太刀の首を掴んで、引きずりだしてきた。
 「ちょっと待ってくださいね、とどめさしちゃいます!」
 短刀を大太刀の首に突き立て、搔き斬ると、それは瓦礫が崩れるような音を発して霧散する。
 「いち兄、来てくれて助かりました。
 そっちは・・・えっと、政府の山姥切長義さんですね!
 秋田藤四郎です!
 よろしくお願いします!」
 礼儀正しい短刀は、そう言ってちんまりと頭を下げた。
 「早速で悪いんですが、お手伝いをお願いします!」
 「は?
 どういう・・・」
 素早く横へ飛びのいた秋田の残像に向けて、刃が振り下ろされる。
 時間軸の狭間に蠢くそれは、見慣れた敵の姿ではなく・・・。
 「鵺・・・?!」
 目を見開く長義に、秋田が頷いた。
 「母上を狙っていた連中です。
 結構な数がいたと思うんですが、出てくる端から斬っていたら、狭間に逃げ込んでしまって、そこで混じり合ってしまったようで」
 大太刀の体から生えた複数の手には槍、太刀、大太刀が握られ、その背にはもう一面の顔。
 長い髪を垂らし、背から生えた両手に薙刀を構えていた。
 「姑獲鳥(うぶめ)・・・。
 おなかの赤ちゃんを奪いに来た化け物だって、母上が怯えています。
 僕一人で倒せたらよかったんですが・・・!」
 屏風の虎だと、秋田は眉根を寄せる。
 「僕がいるせいか、ずっと狭間から出てこないんです。
 でもこっちから狭間に行くと、力が制限されて、倒せなくて・・・」
 手伝いが欲しい、という秋田に頷いたものの、長義もまた、眉根を寄せてしまった。
 「前回、狭間から敵を引きずり出せたのは、力士くんの神事と土地神の力添えがあったからだ。
 だがこの場合は・・・」
 「なるほど、こいつを引きずり出すだけの神通力がない、と言うことですな。
 山姥切の霊刀で無理なら、俗世の私や秋田ではとてもとても・・・」
 わざとらしい口調で、一期一振が首を振る。
 「いにしえの都であれば、神剣は多くおられましょうに、なぜかここにはおられませんなぁ。
 困りましたなぁ。
 通りすがりの刀に、神剣の方はおられませんかー?」
 お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか、のノリで一期一振が声をあげると、
 「はぁーい!通りすがりの神剣でーす!」
 「寺宝もいるが、役に立てるかな?」
 と、帰ったはずの二振りが太刀を抜き放って現れた。
 「なん・・・?!」
 驚愕する長義の傍を、源氏の重宝達が駆け抜ける。
 「鬼退治の始まりだ!」
 狭間へと飛び込んで行く二振りに続いて、一期一振もまた、抜刀した。
 「では、屏風の虎を引きずり出しましょうか」
 
 
 病室内で戦闘が行われている中、廊下でも事態は差し迫っていた。
 「ナ・・・ナースステーションに知らせてきます!」
 走り去った各務に頷き、柳は院内用端末で産科医を呼び出す。
 「は・・・原さん、産まれそうです!
 点滴は外れてないのに、なんで・・・!!」
 泣きそうな顔で言うと、回線の向こうから落ち着いた声で、『予定通りだよ。すぐに行くからそこにいろ』と、頼もしい声が返った。
 震えながら待つ柳が、病室内に響く剣戟の音を恐る恐る覗き込むと、壁の中からどろどろと黒い塊が流れ出て来る所だった。
 「危ない!」
 「ひっ・・・!」
 秋田の声が一瞬遅ければ、銃弾のように弾け飛んだ塊に撃たれ、蜂の巣にされていただろう。
 壁に縋ってへたり込んだ柳の元へ、秋田が駆け付ける。
 「柳先生!母上を・・・!」
 小さな身体には意外な膂力で柳を抱え、立たせた秋田の背に槍の穂先が迫った。
 「危ない!!」
 思わず秋田を抱えこみ、床に転がった柳の首筋を、冷たい刃がかすめる。
 が、確かに質量を感じたそれは次の瞬間、瓦礫が崩れるような音とともに霧散した。
 「枯れススキくんのくせに、やるじゃないか」
 未だ漂う黒い霧の向こうで、長義が高慢な笑みを浮かべる。
 「は・・・・・!」
 詰めていた息を吐く柳に、更なる援軍が到着した。
 「なんで柳先生が産科にいるのか知らないが、ちょうどいいや!
 手伝え!」
 ナースたちと共にベッドに駆け寄った中年女性は、病室内の騒動に唖然とする。
 「なんだこれ・・・!」
 「佐々木先生!」
 覆いかぶさる柳の下から秋田が顔を出すと、彼女の顔がとろけた。
 「あっきゅんー!」
 どこから出たのか、訝しむほどに高い声で秋田に呼びかけた佐々木は、
 「今日もきゃわねぇ、あっきゅん!」
 などと猫なで声を上げながらも、志津子の状況を確認する。
 「分娩室に運ぶぞ。
 ごめんねぇ、あっきゅん!
 先生行っちゃうけど、また後でねぇ!
 柳先生、急げ」
 「あ・・・はい・・・・・・」
 この切り替えの早さはさすがベテランだと感心しつつ、柳は佐々木と共にベッドを運んで行った。
 
 
 「それじゃ、一気に片をつけようか」
 「あぁ、そうしよう」
 不敵に笑った源氏の重宝達は、鵺と化した時間遡行軍の腕を全て斬り飛ばすと、二振りして首に手をかけ、時間軸の狭間から全身を引きずり出す。
 「手柄は譲ってあげるよ!」
 「顔は立ててやらねばな」
 「余計なお世話だ!!」
 進み出た長義は鵺の頭を踏みつけ、、四肢を失って蛇のようにのたうつ首を刎ね飛ばした。
 本体が霧散すると、室内にどろどろと流れ出ていた穢れも消え失せる。
 「いや、さすがの神通力ですな。
 我ら俗世の刀にはとてもできないことでした」
 にこにこと笑う一期一振に、長義が詰め寄った。
 「貴様には話がある!
 一緒に来てもらおうか!!」
 「よろしいですよ」
 でもその前に、と、一期一振は秋田を呼び寄せた。
 「秋田も、仮の主が心配でしょう。
 様子を見に行きましょうか」
 「はい!」
 兄に頭を撫でられて、嬉しげに頷く秋田に、長義は苛立たしげに舌打ちする。
 「そんなことをしている暇は・・・」
 「あるでしょ?」
 「あぁ、敵はすべて打ち払ったのだ。
 別に構わんだろう」
 のんきな髭切と共に病室を出た膝丸の背を睨みつけ、長義は渋々、彼らの後に従った。
 
 
 ―――― 数時間後。
 深夜を回り、ひと際静かな院内に、赤子の泣き声が響き渡った。
 祈るように手を合わせ、大きく吐息した倉橋の背を、髭切と膝丸が両側から撫でてやる。
 「じいさま!産まれました!!母子ともに健康です!!!!」
 まろび出てきた婿が、分娩室と繋がった映像をスマートフォンに表示させた。
 「元気な男の子!!
 俺!!
 この子が大きくなったらキャッチボールして、公園で犬と走り回って、自転車乗れるように練習するんだ!!」
 「随分と具体的ですな」
 楽しげに笑う一期一振の膝から降りた秋田が、背伸びしてスマートフォンを覗き込む。
 「はじめまして、この時代の主君。
 秋田藤四郎です。
 よろしくお願いします」
 にこりと笑った秋田へ、長義が目をむいた。 
 「腹の中の赤子が・・・仮の主・・・だと・・・?」
 そんなことがあり得るのか、と驚く長義に、秋田は嬉しげに頷く。
 「僕もはじめは志津子さまが主君だと信じてました。
 けど、なんだか違う気がするって思ってたら、僕、消えかかっちゃったんです」
 彼女を狙う時間遡行軍は退けたものの、襲われたショックで志津子が動けなくなってしまった時のことだ。
 「志津子さまに言われて、救急車を呼んだり、付き添ったりしている間も僕、狭間に落ちたりこっちに出てきたりで忙しかったんですけど、志津子さまが養生されるようになったら身体が元に戻ったんですよね。
 それでわかりました。
 僕の主君は、志津子さまじゃなくて、お腹の赤ちゃんだって」
 そうとなったら、と、秋田は両の拳を握る。
 「粟田口の守り刀として、僕には主君をお守りする責任があります!
 仮の主君が無事にご誕生されるまでここにいさせてください、って、本丸の主君にお願いしたら、お許しをくださいました!」
 「はぁ?!」
 静かな院内に、長義の大声が響き渡った。
 倉橋と各務にたしなめられ、咳払いをした長義は、恐ろしい顔で秋田に迫る。
 「お前らの主が半狂乱で政府に訴えてきたから、俺は最優先でここの処理に当てがわれたわけだが?!
 審神者が知っていたとはどういうことだ?!」
 「それは私から」
 秋田から長義を引き離して、一期一振が微笑んだ。
 「もうご存じのように、志津子殿は倉橋殿のお孫さんでいらっしゃいます」
 一期一振が見遣った倉橋が、一礼するかのように頷く。
 「当初はもちろん、私達の知らないことではありましたが、敵がなぜか、志津子殿を執拗に狙うという秋田の報告を受けた我が主が、管狐に命じて志津子殿の系譜を調べましてな。
 お腹の御子が、先だって世代交代された本丸の審神者殿の、ご先祖であられると判明しました」
 「そこで彼らの審神者殿から、我が主へ相談があったのだ」
 「うちの主もゴリ・・・ううん、強い審神者だからぁ。
 演練でよく会うんだよね」
 いけしゃあしゃあと言う膝丸と髭切に、長義のこめかみが引き攣った。
 「だったらなぜ秋田が戻って来られなくなったなどと!!」
 「だーって。
 僕らが勝手に手を出したら、時の政府の事だもん。
 うちの本丸に文句言ってくるかもでしょぉ?」
 だから、と、髭切がにんまりと笑う。
 「政府が文句を言えないように、主たちが企んだの」
 「きっ・・・!!」
 貴様らの本丸を処罰してやる、という言葉を、長義は辛うじて飲み込んだ。
 何しろ、大侵寇でさえ軽々と退けた本丸の審神者達だ。
 下手に機嫌を損ねれば、獅子身中の虫になることは間違いない。
 「しかしこれで解決ですな」
 「うんうん、よかったよー」
 にこにこと笑い合う一期一振と髭切に、倉橋が深々とこうべを垂れた。
 「孫とひ孫を救ってくださいまして、ありがとうございます」
 「いいえ」
 首を振って、一期一振は秋田を抱き寄せる。
 「これは、秋田のためでもありましたから。
 我が主は、秋田がやりたいようにやりなさい、と言ってくださいましたので、私も協力したまで」
 「あ、僕たちはお供え物目当てだからぁ」
 「昨日食べ損ねてしまった抹茶すいーつを頼む」
 「承知しました」
 のんきな重宝達へ、くすくすと笑った倉橋は、分娩室からよろよろと出てきた柳にも丁寧に一礼した。
 「ありがとうございました」
 「あ・・・!いえ、僕は・・・震えていただけで・・・・・・」
 情けない、と、俯いてしまった柳の目線の先に、秋田が潜り込む。
 「柳先生は、僕を庇ってくれましたよ」
 「あ・・・うん、でも・・・必要なかったでしょ?」
 「そんなことありませんよ!」
 にこりと、元気に笑う秋田につられて、柳もほんの少し微笑んだ。
 「柳先生は優しいです。
 病室のみんなも言ってました。
 痛いって言うと、どこが痛いかずっと聞いてくれて、お薬嫌だって言うと、なんで飲まなきゃいけないのか、お話してくれる。
 でも・・・・・・」
 小首を傾げた秋田が、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 「よわっちいから、ボールぶつけるのはやめたげよ、って!」
 「よわ・・・・・・」
 苦笑して、柳は秋田の前にしゃがみ込む。
 「子供達にまで気を使ってもらってたんだ・・・」
 「ふん!
 この枯れススキくんには、あの猛獣どもの世話役など到底務まらないだろうからね!」
 腕を組んだ長義が、高慢に顎を上げてことさらに見下ろした。
 「だが、極めた四振りでも制圧に時間がかかった穢れから秋田を庇ったのは・・・まぁ、枯れススキにも蓑程度の役は果たせたということじゃないかな」
 「まったく酷いですな、我が仮の主に向かって」
 嫌味を言う長義に首を振って、一期一振は柳へ手を差し伸べる。
 「あなたは『柳』ですよ。
 私の弟に、医学に通じているものがいましてな、聞いたことがあります。
 柳の樹皮には薬効があるのだと」
 一期一振の手を取って立ち上がった柳に微笑み、その肩に手を置いた。
 「あなたは心労のあまり院内に入ることができなかった間にも、あの時どうすれば救えたのか、なにが原因なのかと、寝食を忘れて国内外の論文を調べておられた。
 ご存じかな?
 この2012年、急性脳症の原因は、まだ知られていない」
 「え・・・?」
 途端、柳は顔を真っ赤にする。
 「じゃ・・・じゃあ、僕はとんだ勘違いを・・・!
 もっと調べて・・・」
 「いえ、実際にウィルス感染が原因なのですよ。
 しかしそれがわかるのはこれから10年後くらいでしょうか。
 それをあなたは、症例や統計をもとに見出した」
 「おい・・・!」
 それ以上言うなと、止めに入った長義を制し、一期一振は柳の肩を叩いた。
 「臨床が恐ろしいですか?
 病が、死が、恐ろしいですか?
 ですがあなたは、その恐怖に怯えながらも逃げずに、細い光を探っておられた。
 暴風にも決して折れぬ柳のように、震えながらも人間を癒すすべを探しておられた。
 あなたは・・・覚悟さえ決まれば、良いさじになられると、私は思いますよ?」
 「覚悟・・・を・・・・・・」
 「決めちゃいなよー」
 軽い口調で、髭切が笑う。
 「今の日ノ本はすごいよー?
 だって、ほとんどの赤子が生きて産まれるんだもん!」
 知ってる?と、小首を傾げた。
 「子供七つは神のうち。
 僕がいる天神様のお社には、昔から子供を連れた親が七五三参りに来たけれど、ほんの百年前までは、初参りに来た子のほとんどがまず、三つになる前に死んでたんだ。
 三つの子供が五つになるまでには更に減って、七つのお祝いに来てくれたのなんて、ほんの一握りだったよ。
 それがさ!
 ある頃から、初宮参りに来た子達がみんな、十三参りにまで来るようになったんだ!
 本当にどうしちゃったんだろうって、驚いた!
 でもそれって、君達みたいなおさじが頑張ったおかげなんだよね。
 うちの子達、元気に育ててくれてありがとぉ」
 「いえそれは僕なんかじゃなくて・・・!」
 「いいから兄者の加護を受けろ、さじよ」
 慌てる柳に、膝丸がにこりと笑う。
 「兄者は凄いぞ。
 刀の下をくぐれば病に罹らないとまで言われているのだからな!」
 「うふふ。
 くぐってみるー?
 ご利益あるかもよ?」
 楽しげに言って、えい、と、鞘ごと柳の頭上を薙いだ。
 「おや、これは・・・素晴らしい加護をいただきましたな」
 「定崇の血筋には、生まれる前からやってるでしょー。
 志津子が無事じゃないわけないんだよ」
 「もちろんそうですな」
 和やかな二人の姿に、柳は詰めていた息を吐く。
 「一期さん・・・秋田くん・・・!僕・・・・・・!」
 顔を赤くし、額に汗を浮かべて、必死に言い募った。
 「覚悟・・・決めます・・・!!」
 「がんばってください!!」
 小さなこぶしを握って笑う秋田に、柳は大きく頷いた。
 
 
 ―――― 夜が明け、ごねる刀達を各自の本丸に返したのち、宿泊先に戻った長義はぐったりとベッドに倒れ込んだ。
 「・・・・・・こんなに疲れたのは初めてだ」
 「次のアポイント・・・いえ、約束は3時間後ですから、しばらくお休みいただいて結構です」
 スケジュール帳を手に、遠慮がちに声をかけた各務を長義は見遣る。
 「お前も休んだらどうだ」
 「私は24時間働けるアイテムを持っていますので」
 「そんなものが?!」
 起き上がった長義から、各務は歩を引いて首を振った。
 「・・・これはバブル時代の遺物で、禁断のアイテムと呼ばれる代物です。
 そうそう使えはしませんし、お勧めもできませんから」
 「そうか・・・」
 残念そうに言って、枕に突っ伏した長義から、寝息が漏れる。
 「お疲れさまでした」
 一礼した各務は、静かなアラームをセットしたスマートフォンを枕元に置いて、そっと部屋を出て行った。
 
 
 ―――― 数時間後。
 車の中からぼんやりと外を見る長義へ、各務はバックミラー越しに微笑んだ。
 10月初めの嵐山は賑やかで渋滞もひどく、車は遅々として進まない。
 「寝てくださって大丈夫ですよ」
 到着にはまだかかりそうだと言う各務に、長義は首を振った。
 「・・・お前が寝ていないのに、ここで寝るほど厚かましくはないぞ」
 ぎゅっと眉根を寄せて、寝ないように気を張る長義に、笑ってしまいそうになる顔を引き締める。
 が、突然、
 「止めろ!!」
 鋭い声に頷き、出来るだけ早く、しかし安全に路肩に寄せた。
 車が止まるや外に出た長義は、二人連れの観光客に向けて突進する。
 「なぜいる!!」
 突然怒鳴られた二人・・・いや、二振りは、それぞれが手にしたソフトクリームを掲げて笑った。
 「弟を寺まで送るついでに、抹茶そふとを食べてたの」
 「こっちは焙じ茶だ。
 兄者、味見するか?」
 「ありがとぉ。
 こっちもお食べ」
 「お前達は今朝、本丸に帰ったはずだろうが!!!!」
 ソフトクリームを交換する二振りに長義が怒鳴り声をあげると、まぁまぁと髭切が笑う。
 「自分の本丸に帰れずにいる男士が、相当数いるって聞いたよぉ?
 そんなの、長義一振りじゃ無理でしょ。
 だーかーら!」
 膝丸と目配せして、長義へ向き直る。
 「京の治安は僕らに任せてよ!」
 「顔にクリームつけたやつの言うことなんか当てにできるか!」
 寝不足による苛立ちのあまり、長義がヒステリックな声をあげた。
 「お二方・・・!」
 三振りへ駆け寄った各務は、この2012年における時の政府の代行者として、長義の心の平穏を取り戻すべく、源氏の重宝達の説得にかかった。
 
 
-了-
 
 
 
【あとがき】
スーツの次は白衣じゃね?という、実に邪な動機で書きました。
神崎先生は、よくヲタ話で盛り上がっている小児科医の先生をモデルにしてますが、無断なので内緒にしておいてください・・・。
今回、急性脳症や切迫早産について書いていますが、私は医療者ではないので、不確実なところもあるでしょう。
具合が悪くなったら自己判断せずに病院に行ってください。
なお、『シン・ゴリラ本丸同士が演練でよく会う』というのは、審神者レベルの上限が解放されると、1年くらい同じメンツで演練するからです。
倉橋さんが源氏の二振りと行動しているのは、映画の最後のセリフから。
『子々孫々まで紡いで行きたく存じます』より、継承の審神者さんはこの人の子孫なんだな、と思うと同時に、事後処理が必要な各務さんとなぜか倉橋さんだけは、この事件の記憶を保持しているんじゃないかと推察です。
そもそも源氏二振りが顕現した際に、『お待ちしておりました』と言っているので、天満宮にはそういう言い伝えがあるのじゃないかと思っています。
そして八億四千万を三年で制圧、というのは私の戦績から推測です。
就任3000日ほどで約908000勝。(秘宝の里などの小判使用イベントは含まず)
敵一隊の基本数は6体ですが、2体、4体の場合もあるので、一勝につき4体として3632000体破壊。
こんな本丸が一国に100あるとして、21国×100本丸=2100。
3000日で7627200000体葬っているので、当初の試算の9倍の数を破壊していることに。
一日2542400体なら330日、つまり1年以内に制圧しています。
もちろん、最初から21国あったわけじゃありませんし、就任当初からこの数はこなせないので、3年くらいが妥当かな、という手心を加えています。
ゴリラと言われる所以ですね。

名を呼ぶ

あーもうマジやってらんない。先日27歳を迎えたばかりの里見満はスーツのスカートの裾を気にしながら胸の内で呟いた。
カツカツとヒールがアスファルトに音を立てる。午後のゆったりした空気を切り裂くように満は勤務先に向かってひたすら歩いた。
オフィスビルが立ち並ぶ界隈の人通りはまばらだが皆一様にスーツを着ていていそがしそうに早足で歩いている。
新しい部署に異動して約半年。いまだ新しい部署に馴染めていない。
生来人見知りで不愛想で無口というのもあるけれど部内での些細な嫌がらせが満を疲弊させさらに無表情にさせていった。
仕事に影響が出るようなことでは無い分相談もしづらくせいぜい彼氏に愚痴をこぼすくらいだった。
その彼氏も『最近おまえ愚痴ばっかりだしちょっと距離置きたい』と言われてひと月ほど連絡をとっていない。
このままフェードアウトかなぁ、と満はぼんやり感じている。
踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、とはこの事だろう。
「あ、また糸出てる」
スカートの裾からはほつれた糸がのぞいている。
所用で会社をでてそのまま休憩に入った。
ランチを食べているときにスカートの裾がほつれているのに気づいたが外出先ではどうにもできなかった。
部内の嫌がらせの一つ一つは本当にささやかだ。お土産を貰えなかった、有志の飲み会の声がかからなかった、業務連絡以外の話をしてくれない。
本当に一つ一つはどうでもいいことなのだ。業務に支障が出るようなことは特にない。
漫画やドラマで見るようなロッカーにいたずらだとか書類を隠されるとか会議の時間変更を知らせてくれないとかそういうシャレにならないことはない。
だからこそ、純粋に受け入れられてないのだな、と感じてならない。
悪意や敵意すら持ってくれない。部署内で『里見満』という『個人』はいない。ただ『社員』がいるだけだ。
異動願は出しているけれど異動して一年もたっていないのに受理されるとは思えない。
だから会社に戻りたくないな、考えてしまう。多少遅れたところで誰も気には留めないだろう。
まるで子供のような拗ねた気持ちをおさえきれずに、満はくるりと向きを変えて目前の会社に背を向けた。
そこから一瞬意識が途絶えた。黒い空白の時が流れたのだと気づいたのは意識を取り戻した後だ。
「……え?」
あれ?私今何してたっけ?ときょろきょろと辺りを見渡す。周囲の人たちも満と同じようなきょとんとした表情をしていた。
その時だった。
ぶわり、とどこからともなく強い風が吹いて辺り一面が桜色に染まった。
いや、実際桜吹雪が満の視界を覆いつくし、平行感覚を失った満は思わず尻もちをついた。
「……お、無事に着いたみてーだな!」
桜吹雪が雪のように消えた後、そこに現れたのは一人の青年だった。
センター分けの黒い短髪、すらりとした手足、にこりと笑う整った顔立ち。
「い、イケメンが過ぎる」
状況にそぐわない呟きを思わずもらす。あまりにも現実味のない存在だ。
しかもその顔立ちに気をとられていたがよくよく見ると変わったいで立ちをしている。
緑のジャケットに黒いズボンはともかく肩には甲冑のようなものがついているし赤いひらひらした長い布が風になびいている。
そしてなにより目を引くのが腰の刀だ。
「じゅ、銃刀法違反……?」
まさか本物ではないだろうと思う、けれど。その刀から受ける印象はとても鋭くてニセモノには思えない。
「お、あんただな」
銃刀法違反のイケメンが満に近づいて手を差し伸べる。
困惑する満にイケメンは微笑む。
「服汚れっぞ。とりあえず立ってくれ」
黒いグローブに覆われた手を取るとよっと軽く引き上げられた。
「あの……」
「悪ぃ、説明してる暇ねーんだ。ちっとあんたにやって欲しいことがあんだけどよ」
「やってほしいこと?」
イケメンが満を真正面から見つめてくる。意味がよくわからなくて鸚鵡返しをしながらその瞳の色に気づいた。
血のように赤い瞳。こんな色は人には出せない。カラコンでもない。実際の瞳の色だ。
「俺の名を。ブゼンゴウって呼んでみてくれねーか?」
「は?」
何処までも意味が分からない。名前なのそれ?とか呼んだらどうなるの?とか疑問が渦巻く。
美形すぎるこの青年の赤い瞳が怖い。
「俺の主の力だけじゃ足りねーんだ。あんたにも名前を呼んでもらわないと……」
不意に言葉を切って青年が背後を振り返る。キャーーーっという悲鳴が同時だった。
「きやがったか!悪い、少し下がっててくれ」
青年が刀を抜く。きらりと緩い陽射しを反射した。
青年の先には黒い人のようなモノがあった。人の形をしているけれど明らかに人ではないモノ。
それが3体不意に現れたのだ。
「なにあれ。ゾンビ、とかじゃないよね……」
逃げ惑う人々の間を縫って青年が黒いモノに刀を向けた。その背中が不意にブレる。
キィン!と高い金属音が響く。青年が化け物の刀を弾き、鋭くその腹部を一刀した。
返す刀で2体目を斬りつけその勢いで3体目を刺した。
流れるような風のような早さだった。
逃げ惑う人の中、満だけはその場に立ち尽くし青年の戦う姿を見守っていた。そうしなければいけないような、そんな気がして。
あるいは目の前の出来事を全く理解できてなくてただ呆然としているだけなのかもしれない。
「とりあえず、よしっと」
ブン、と一度刀を振って鞘に納める。一連の動作が滑らかで、手慣れているのがよくわかった。
こちらに戻ってくる青年に一歩後退ってしまう。コスプレだの何かのイベントだの現実的な理屈をつけようとする段階は既に超えてしまっていた。
さきほどの化け物と同時にこの青年も人ではない。それを感じ取れてしまう。
「なあ、悪いけどさっき言った俺の名前呼んでくれねーか?」
そんなに人通りの多い場所ではないけれど、今不自然に人の気配がしない。その中で青年が満に呼びかける。
「……呼ばないとどうなるの?」
怖いのにそれを打ち消したくてそんな言葉を口にしていた。
「こうなる」
青年がグローブをした手をつきだす。それがふいに揺らいでぼやける。
「な、なに?!」
「この時代の俺は行方不明で所在がはっきりしねーんだ。顕現できねーわけじゃねぇんだが、揺らぎがでる」
「……意味わかんない」
ま、わっかんねーだろうな、呟いて青年は小さく笑う。
自分の存在を確かめるように握ったり開いたりする手は時折薄くなったりぼやけたりして満は目を疑う。
「頼むよ、時間ねーんだ。さっきのアレ見ただろ?」
「あの、化け物?」
「そ。俺はあいつら倒しに来たんだけど、うちの主ちっと霊力低めだし、この時代に俺行方不明だしでさ」
説明は満には全くわからない。先ほども言っていたこの時代に行方不明とはどういうことだろうか?
首をひねる満に青年は苦笑して、口を開く。
「ぶぜんごう、って言ってみてくれよ」
「ぶ、ぶぜん、ご、う……?」
「もっかい、豊前江って」
言われて満の頭に漢字がふっと浮かんだ。
豊前、九州の方の地名だった気がする。ごう、は『江』だ。
「豊前江……」
「サンキュ!」
満が口にした途端ぐっと青年豊前江の輪郭がはっきりした。
何がどう、と具体的にはわからないけれど、まるで二次元が三次元に立体化したような印象を受けた。
ぱちぱちとまばたきをする。
「よし、これでいける!」
豊前江が力強く拳を握る。
「あんがとな!主のご先祖様!」
「……は?」
「じゃあな!あ、さっきのやつらはもうこっちには来ないから安心していいぜ」
パチンと豊前江が指を鳴らす。すると一気に街のざわめきが戻り豊前江は消え、満は白昼夢でも見ていたのかと思った。
けれどスカートの裾はほつれたままだし尻もちをついたときの砂埃も痛みもまだ残っている。
「なんだったの……?」
突然現れたイケメンが突然現れた化け物を倒して名前を呼べと言って不意に消えた。
それと同じようにあの戻りが遅れたところで誰も気にしない、という拗ねた気持ちが消えてなくなっていた。
「……所在不明、か」
今の私もそんなもん、かも。部署内にいてもいるということを認識してくれていない。
だけど、認識してくれとこちらから働きかけてもいなかった。
挨拶と業務連絡以外話さないのはこちらも同じ。
彼氏にだって距離を置きたいといったのは向こうだからとこちらから連絡はしていなかった。
満は背を向けていた会社に向き直る。何故だか今は今度こそ新しい部署になじむ努力をしようと素直に思えた。

神隠し-長義と各務の事後処理案件- / くれは

 内閣官房国家安全保障局内、地下施設にて。
 2012年、国家を揺るがす事件を隠密裏に解決へ導いた一振りと一人は今、深刻な顔を見合わせていた。
 「・・・後始末に呼ばれたと思ったら、そう言うことか」
 高級な革張りの椅子が、もう何年も前から彼のものであったかのように馴染んでいる山姥切長義が、長い足を組みなおす。
 苛立たしげに机上を叩く指の先には、ほんのりと湯気をあげる茶があった。
 長義が茶器を取り上げると、盆を小脇に抱えて直立する各務が、深々と頭を下げる。
 「今、あの事件の記憶を保持しているのは私と首相、一部の閣僚だけです。
 首相からは事後処理の全権を頂いておりますので、山姥切さまの任務遂行に対して、支障なく援護できると・・・思います」
 「なぜ最後で自信なげなんだ。
 仮とはいえ、俺の主なら堂々としていろ」
 顔をあげた途端、深い湖の底のような蒼い瞳で睨まれて、各務は困惑げに目線を落とした。
 「わ・・・私は、山姥切さまのサポートをするだけの役人ですから・・・。
 この度は私どもの処理能力が及ばず、ご足労頂きまして・・・」
 「別に、足労じゃない」
 ちなみに、と、長義は茶托にそっと高級な湯呑を置く。
 「俺は今回、政府からの任務を受けて来たわけじゃない。
 ・・・個人的に、茶でも飲もうかと寄ったらたまたまこの事案を聞いた。
 時の政府はこの件について記録を残さない。
 そういうことだ」
 「承知しております」
 2012年に時間遡行軍の侵略を許す、という失態は、時の政府の中でもかなりの騒動となり、責任者の首が数個飛んだという。
 ただ、原因とされる山姥切国広の本丸は、少々面倒な任務を押し付けられるに留まり、これといったお咎めはなしだ。
 ただでさえ戦力的に不利な状況で、戦える本丸を減らすわけにはいかない、という思惑もある。
 「本丸に比べれば、公僕の首など軽いものだ」
 「それは200年後でも変わらないのですね・・・」
 そう言って各務は苦笑した。
 彼自身も先般の事件では、長義の存在よりも日本国民である仮の主たちの安全を優先し、避難を先導した。
 国民のために真っ先に死ね。
 それが、当然の価値観だ。
 「ただし今回は、前回ほど緊迫してはいないと・・・愚考いたします」
 「いちいち卑下するな。不快だ」
 「も・・・申し訳ありません・・・」
 身を縮める各務に、長義は鼻を鳴らす。
 「経緯を説明しろ」
 命じられた各務は、恭しくタブレット端末を差し出した。
 しかし長義は、タブレットへ視線を送りながらも、ジャケットの内ポケットから取り出した万年筆で手帳に必要事項を書き付けていく。
 200年も後の世界から来たにしては随分とアナログなことをと、見つめていると、各務の視線に気づいた長義が顔をあげた。
 「なんだ?」
 「あ、いえ・・・その・・・」
 しどろもどろになりながら、長義が紙とペンを使っていることが不思議だというようなことを言えば、彼はしばし考え込んでしまった。
 「あの・・・」
 また何か無礼を働いただろうかと不安になるほどの時間をおいてから、長義は『内密に願いたいが・・・』と、呟く。
 「こののち、日本だけではなく世界中が、記録文書を電子文書にて保管することになる。
 だが・・・詳しいことは言えないが、ある事態により世界中の電子文書が失われる事件があり、その反省から、2205年時点では、記録は紙で残す法律ができているんだ。
 俺達が必要事項を紙に記すのもそのせいだな。
 まぁ、今回の件は、処理が終われば処分するが」
 「それは・・・!
 大変なことです・・・!!」
 慌てる各務に、長義は頷いた。
 「そう、大変なことだ。
 だが、お前は何もしてはいけない。
 それがこれからの歴史だからだ」
 「は・・・はい・・・・・・」
 大変なことを知ってしまった、と青ざめる各務を、長義は一瞬、気の毒そうな目で見たが、すぐに表情を改めて立ち上がる。
 「出かけるぞ」
 「は・・・はい!
 あの、山姥切さま、その前に・・・」
 「なんだ」
 刀剣の付喪神にふさわしく、立ち姿さえ怜悧な長義が振り返るさまに、各務は一瞬見惚れた。
 が、慌ててかぶりを振り、高級紳士服店の箱を差し出す。
 「今回、戦装束は不要と愚考・・・いえ、思われますので、こちらをどうぞ。
 首相より、できるだけ目立たないようにとの要請です」
 「・・・なるほど」
 命じられることが不快なのか、一瞬、眉をひそめた長義だったが、前回のようにいちいち衆目を避けるのも面倒だ。
 「受け容れよう」
 「ありがとうございます」
 従者のごとき恭しさで一礼した各務に、長義は浅く頷いた。
 
 
 「刀をすぐに抜けない状態にしておくのは不便だな・・・」
 ぶつぶつと言いながら、美術刀剣運搬用のジュラルミンケースに本刃を納めた長義が、不満顔をあげた。
 いつもの癖か、身を起こす際にマントを払う仕草をしてしまい、気まずげに手を振る様を、各務はにこにこと見守ってしまう。
 今の長義は戦装束を解き、各務が用意したスーツを纏ってくれていた。
 シルバーグレーを基調にしたそれは、彼が動くたびに銀の光沢が身に沿って、人外の美しさを際立たせる。
 伝統工芸品のネクタイは、彼の瞳の色に合わせた深い青で、シルクの光沢を存分に発揮していた。
 しかし、
 「首相の要請には、残念ながら応えられていないようです・・・」
 「なんだと?!」
 各務の指摘に、長義はまなじりを吊り上げる。
 「ここまでしてやったのに、何が不満だ!」
 「い・・・いえ、不満ではなく・・・!!」
 慌てて首を振りながら、各務は着替え用に準備した姿見を指した。
 そこには、猫背気味の各務とは対照的に、威風堂々と背筋を伸ばし、やや顎をあげて高慢に見える長義の全身が映っている。
 「十分に地味じゃないか」
 「・・・これを地味と言うのは無理があります」
 高級紳士服は選択ミスだった、と頭を抱える各務にムッとして、長義は彼の眼鏡を取り上げた。
 「だったら、こういうものでもかければいいのかな?
 度が入っていないものを持ってこい!」
 実用性しかない黒縁眼鏡をかけてさえ、損なわれることのない美貌に各務は、言葉を失って顔を覆った。
 
 
 「まったく、部屋を出るまでに随分かかってしまったじゃないか。
 もっと効率的に動けないものかな!」
 ぼやきながら、高級車の後部座席に腰を下ろした長義に一礼し、各務は運転席に座る。
 「飛行機の出発時刻にはまだ間がありますので・・・」
 「当然だ。その程度の信頼はしている」
 「恐縮です・・・」
 単なる言葉の綾かもしれないが・・・信用ではなく、信頼と言われたことに、各務は思わず顔をほころばせた。
 「では、道中ご説明いたします。
 先ほどお渡しした写真付きのカードは、私が文化庁時代の伝手で入手した身分証になります。
 もう一枚のカードは、美術品運搬資格者証です。
 今年から設けられた資格ですので、まだ見たことがない職員もいるかと思いますが、なにか問われましたら身分証を見せれば、問題なく検査場を通過できます。
 同封の用紙のうち、1枚は銃砲刀剣類登録証になります。
 現在、日本には銃砲刀剣類所持等取締法、略して銃刀法というものがありまして、正当な理由なく刀剣類を持ち運ぶことは禁じられています。
 これだけは絶対に携行されますよう、お願いいたします。
 もう1枚は、空港警察発行の機内持ち込み許可証になります。
 こちらも帰りの便まで、携行をお願いいたします」
 「なるほど、治安維持のための心配りだな」
 書類に目を落とした長義は、俯いた額にかかる髪を邪魔そうにかきあげた。
 「・・・全く鬱陶しいな。
 これじゃまるで、偽物くんじゃないか」
 できるだけ顔を隠してほしい、という要望を受けて、今の長義は前髪を下ろし、フレームの太い眼鏡をかけている。
 「申し訳ありません・・・。
 飛行機に乗っている間だけですので」
 ぼそぼそと、申し訳なさそうな声で各務は言い募った。
 羽田空港はなにしろ人が多いし、いつ『YOUはなにしに』などと突撃してくる輩がいるかわからない。
 変に目立っては、これからの任務・・・いや、事後処理にも影響が出るかもしれない。
 そんなことをしどろもどろに言えば、長義は不満顔ながらも頷いた。
 やがて、車は空港に入り、専用の駐車場に止まる。
 各務に先導され、手荷物検査場へ向かった長義は、漂って来た甘い香りに目を向けた。
 「へぇ・・・。
 この時代にも、まだいるんだな」
 現代の若者らしい軽装ではあるが、鬢付け油できれいに整えられた髷結(まげゆわい)は力士だろう。
 「大相撲の11月場所は福岡で開催されますから」
 「なるほど、移動中か・・・」
 「あぁー!!!!長義はん!!!!」
 すれ違おうとした時、力士の影から頓狂な声が上がった。
 「明石国行・・・!
 俺が目立たないよう、苦心したというのに・・・!」
 完全に衆目を集めてしまい、苛立たしげな長義にしかし、明石は構わず迫った。
 「あんたが目立たんとか、無理やろ!
 寝ぼけたこと言うとらんではよ行きますよ!」
 長義の腕を掴み、強引に連行する明石もまた、注目を浴びる。
 今の彼は、細身のデニムに白いシャツ、黒の革ジャケットと、この時代の若者らしい軽装だが、手には長義と同じく、ジュラルミンケースを持っていた。
 「ほら!
 なんとかの海さんもはよう!」
 「肥後大海です・・・・・・」
 大きな体躯に似合わず、細々とした声に長義は眉根を寄せる。
 「明石の仮の主か?」
 「そう・・・みたいです。
 あの・・・俺、なにをしたら・・・?」
 大きな体を縮めて、おどおどと長義の顔色を窺う力士へ、各務がもたもたと駆け寄った。
 「ご・・・ご挨拶が遅れまして。
 私、内閣官房国家安全保障局の各務と申します。
 この度はご協力感謝いたします」
 「あ、いえ・・・」
 各務が差し出した名刺を太い指でつまんだ肥後大海は、丸い肩を更に丸くして屈みこむ。
 「俺、状況がよくわかってなくて、すみません・・・」
 「いえ、こちらこそまだ十分にご説明できず、申し訳ありません・・・」
 「いえ、すみません・・・」
 「こちらこそ申し訳・・・」
 「いつまで続くのかな、それは?」
 長義の冷ややかな声にすくみ上った二人へ、明石が手を振る。
 「とりあえず、乗るで!」
 
 
 羽田発熊本行の飛行機には、各務が用意した身分証明書等の効果もあって、問題なく乗ることができた。
 高級スーツの青年と、気楽な装いではあるが、角度によって色の変わるアレキサンドライトのような不思議な瞳の青年が並んで座る席は、有名人を見慣れたキャビンアテンダントでさえ目を吸い寄せられずにはいられなかった。
 やがて離陸した機内で、明石は保温カップに入った茶にため息をこぼす。
 「いやもう、あんたはんが来てくださって助かりましたわ・・・。
 まさか、うちの子が迷子になるやなんて思いませんやろ?
 ちゃんと帰って来るもんやと思ってたらいつまでも戻らんし、演練にはこの時代に出陣したお刀らが平然とおりますのに、なんでうちの子帰ってこぉへんねん、ってなりますやん?」
 両手で頭を抱え、ぶつぶつと言う明石の話を聞き流しながら、長義は機体の下に流れる雲を眺めた。
 「そんで、うちの主はんにお願いして自分が迎えに来たんですけど、自分、本体は江戸の両国にあるんです。
 なんとか川さんがおらんかったら顕現もできへんかったてあんた!
 国宝の名折れですわ!」
 「肥後大海です・・・・・・」
 通路を挟んだ席で、大きな体を縮めた肥後大海が、消え入りそうな声で言う。
 「えっと・・・俺、福岡に行かなきゃだったんですけど・・・。
 なんかもう、負けてばっかだし・・・相撲辞めようかなって思いながら、なんとなく刀剣博物館に行ったらこの人がいて・・・助けてくれって言うから・・・」
 「そうや!
 なんとかの山さんがボケっと突っ立ってはるから、暇なら手伝うてくれんかとお願いしたんや。
 長義はん、ありがたい人なんやから、お礼たくさんあげてな!」
 「・・・君、そんなにせっかちな性質だったかな?」
 本丸によって個体差はあるものの、明石国行は国宝でありながら、非常に怠惰な性質をもつ。
 その彼がこんなにも慌て、騒ぐのはひどく珍しいことだった。
 「他の事ならまだしも、うちの子のことですよって!
 蛍丸・・・!
 あの子、この年にはまだ見つかっとらんのや・・・!」
 「あぁ・・・そうだったな」
 ちらりと、長義が肥後大海の向こうにいる各務へ視線を送ると、彼は気配を察したのか、該当ページを開いたタブレットを持って駆け寄る。
 受け取った長義は、頷いて明石を見遣った。
 「旧国宝刀、蛍丸は1945年の『刀狩り』によって阿蘇神社から接収され、その後行方不明になっている。
 再現刀として再び奉納されたのは2017年だ。
 この2012年時点では行方不明のままだな。
 依り代を見つけられず、さ迷っているんだろう」
 言うと、明石は顔を覆って嘆いた。
 「も・・・だから!!
 太郎はんに行ってもらえばよかったんや!!
 なのにあの子がどうしても行きたいゆうて・・・!」
 「それで迷子になっていれば世話はない。
 おかげで俺まで駆り出されている」
 せいぜい厭味ったらしく言ってやったが、
 「ありがとうな!
 ほんまにありがとうな!!
 感謝感激やで、長義はん!!
 まさか、あんたはん自ら来てくれると思わんかったから、自分一人でどないしょって、困り果てとったんや!
 賞与たくさんもろうてな!!」
 涙ながらに縋りつかれてしまい、きつく眉根を寄せる。
 「各務・・・。
 こんなのが他にもいるのか・・・」
 うんざりと言う長義に、各務は恐縮した態で一礼した。
 「時の政府の要請を受け、各本丸から派遣された刀の中には、この時代に上手く顕現できなかった、もしくは帰還に支障があったなど、現時点に取り残された物が複数いると、連絡を受けております。
 山姥切さまには、彼らの帰還援助をお願いしたく・・・」
 「よろしゅうな!よろしゅうな!!
 うちの子、まだ小さいんや!
 お腹すかせてへんか、寒いことないか、心配でたまらんのや!!」
 「あ・・・明石さん・・・・・・」
 各務の言葉を遮って惑乱する明石を、肥後大海が長義から引き離した。
 「助かったよ、力士くん。
 君の親方にはこちらから連絡しておくので、少々到着が遅れることになっても叱られることはないよ」
 「あ、はい・・・っ?!」
 肥後大海は、うんざりとした様子で眼鏡をはずした長義の顔をまともに見てしまい、明石を羽交い絞めにしたまま固まってしまった。
 
 
 ―――― なんで・・・!
 息を切らしながら、蛍丸は走り続けた。
 日の暮れた山中には明かり一つない。
 どこからか水の音が聞こえるが、自分が漏らす荒い息に耳を塞がれ、方向すらわからなかった。
 「くっ・・・!」
 感覚だけで振り上げた大太刀に、刃がぶつかる。
 一瞬散った火花の中に見えた敵に向け、大太刀を横薙ぎに振れば、その端に鈍い感触があった。
 これで何体かは屠ったようだが、蛍丸も無傷ではない。
 ―――― なんで・・・!
 再び、自問する。
 「なんで・・・いつもみたいにできないんだよ・・・!」
 泣きそうな顔で呻き、蛍丸は敵へ背を向けた。
 闇雲に逃げながら、悔しさに唇を噛む。
 2012年への遠征。
 彼の本丸からは本来、太郎太刀が行くはずだった。
 強く、大きく、常に冷静沈着で神格も高い。
 申し分ない『自慢の一振り』だと、誰もが認める大太刀。
 そんな彼に、負けたくなかった。
 自分だってできると証明したかった。
 だから、わがままだとわかっていたけれど、主に頼み込んで行かせてもらったのだ。
 なのに、この時代に顕現することさえできなかった。
 いつもの遠征と同じく降り立とうとした瞬間、厚い壁のような何かに阻まれたのだ。
 それだけならまだしも、刀身が蝕まれていく感触さえ・・・。
 このまま壊れてしまうのかと怯える蛍丸を、大きな手のようなものが包みこみ、引き離してくれた。
 そして気づけば・・・ここ、阿蘇の山中にいたのだ。
 生い茂った葉の隙間から見る秋の夜空はどこまでも深く、活火山から立ち昇る煙が薄く漂っている。
 ひとまずは川をと目指していたところで、しかし、この地を襲う敵に見つかってしまった。
 いつもの彼なら、多勢に無勢もどうということはない。
 大太刀の一振りで殲滅し、得意げに笑うだけだ。
 しかし顕現できずにいる身にとって、敵の装甲は厚く、自身の足さばきは鈍く、苦戦を強いられていた。
 そのせいで蛍丸は何日も山の中を逃げ続けている。
 「国俊・・・国行・・・・・・!」
 涙をにじませながら、蛍丸は家族の名を呼び続けた。
 
 
 熊本空港に到着した一行は、各務が手配していた車に乗り込んだ。
 「機内でご報告しました通り、蛍丸さまらしき子供の目撃情報が、藤谷神社から西岳川の付近で複数名より報告されています。
 多くは、山の中で子供を見た、迷子ではないか、遭難している子供の情報はないか、というものでした。
 しかし、目撃されたのが夜であったこと、子供とは思えない速さで移動していたこともあり、なにかの動物か、幽霊ではないかと噂になっています。
 蛍丸さまを保護したのちは、動物であったと発表する予定です」
 「各務はん、さすがやわー!仕事できますわー!!」
 真面目に言っているのに不真面目にしか見えない明石が、盛大に拍手をする。
 「けど、あの子にとって阿蘇は庭のようなもんなんですわ。
 なのに、どこにも身を寄せずに山の中を走り回っとる言うのは・・・」
 と、深刻な顔で、明石はジュラルミンケースから太刀を取り出した。
 助手席でぎょっとする肥後大海を放って、鯉口を切る。
 「おりますな、敵が」
 「あぁ、その通りだ」
 長義もジュラルミンケースから刀を取り出し、いつでも抜ける位置に据えた。
 「あ・・・あの、そんなもの出しちゃあ・・・・・・」
 もごもごと、肥後大海が口の中で呟く。
 「阿蘇は人気の観光地ですから・・・夜でも人が多くて・・・」
 目立ってしまう、と言う彼に、長義は口の端を曲げた。
 「うちの各務を甘く見てもらっては困るな。
 そうだろう?」
 バックミラー越しに視線を向けると、各務はこくりと頷く。
 「阿蘇山は活火山ですから、噴火警戒レベルを上げれば交通規制が可能です。
 既に各所へ連絡し、山中へは立ち入れないようにしています」
 「はぁ、さすが国家・・・なんとかかんとか」
 赤面する肥後大海に、明石は呆れたように首を振った。
 「ちょっとなんとかの池はん、あんたはんはこの時代の人やろ。政府機関くらいちゃんと覚えとかんと」
 「お前は政府機関の前に仮の主の名を覚えろ」
 長義の冷ややかな声に、肥後大海はこくこくと頷いた。
 
 
 ―――― 約1時間後。
 交通規制のため、誰もいない神社の敷地内に、一台の高級車が止まった。
 「蛍丸・・・!」
 今にも山中に駆け入りそうな明石を止め、長義は彼へ手を差し出した。
 「お前の本丸の磁針を貸せ」
 時間遡行する際に、間違いなく自身の本丸に戻れるよう男士達が持つ器械を受け取った長義は、ジャケットの内ポケットから数枚の紙を取り出す。
 宙に放り投げたそれは蝶の姿に変わり、長義が差し出す磁針に群がった。
 明石の主である審神者が、磁針に込めた力をほんの少し吸い取った蝶は、夜闇に蒼白く光る羽を羽ばたかせながら一行を先導する。
 「声をかけてはどうだ」
 長義に頷いた明石は、木立へ向けて蛍丸の名を呼んだ。
 「・・・山の中で迷うたら、山頂か川を目指せ言うてますから、西岳川の付近にいると思うんやけど・・・」
 肥後大海や各務も協力して、声がかれるほどに呼びかけるが何の応えもない。
 ただ、案内の蝶は、川沿いに山頂を目指している。
 「・・・返事ができない状況、というものも想定しなければね」
 眉根を寄せる長義に、明石が顔をこわばらせた。
 「・・・こんなことなら行かせるんやなかった。
 あの子がどうにかなったら、自分は自分を許されへん・・・」
 「君は・・・人間のようなことを言うんだな」
 意外そうな顔をする長義を、明石は訝しげに見返す。
 「嫌味に聞こえたらすまない。
 俺は、政府の顕現刀なんでね。
 本丸というものは、そんなに親密になるものかと思ってね」
 先般の事件での、三日月と国広もそうだった、と言う長義に、明石は深く頷いた。
 「本丸にもよるのかもしれんし、自分の個体差っちゅーもんかもしれんけど、蛍丸はおんなじ一族の、しかも、人に盗られてそんまんま行方知れずになってしまった子なんや。
 本丸で会えた時はそりゃあ嬉しかったし、毎日元気に遊んどるの見とるだけで幸せやなぁと思う・・・。
 阿蘇神社の宮司はんみたいに、探して探して見つからんで・・・最後まで気にして亡くならはったお方もいてるんや。
 やったら自分が、いつまでも大切にしてやらんと、とおもっとったのに・・・」
 と深く、吐息する。
 「そうか・・・」
 なにか言うべきか、長義が思案する横で、
 「明石さんっ!!
 俺・・・!
 俺、一晩でも二晩でも探しますんで!!
 絶対、蛍丸くん連れて帰りましょう!!ね!!」
 「肥後の川はん・・・!」
 涙目になって、明石が肥後大海の手を取った。
 「あんたはん、ええ人やな!!
 よろしゅうお頼みします!!」
 「だから君、名前・・・」
 「肥後までは合ってました」
 呆れる長義に、各務が深々と頷いた。
 
 
 時折同じ場所を巡りながら、一行はふわふわと漂う蝶を追いかけていた。
 「また同じ場所だな。
 どうやら、山中を逃げ回っているらしい」
 ため息をつく長義の傍で、各務がふと顔をあげる。
 「あの・・・山姥切さま、つかぬことをお尋ねするのですが・・・」
 「なんだ?」
 わざわざ足を止めて振り返った長義に、各務は頷いた。
 「先般の事件で私が離れた時・・・どこにいらっしゃいましたか?」
 「どこ・・・とは・・・?」
 訝しげな顔をした長義は、はっとして頷く。
 「そうか、蛍丸は時間軸の狭間にいる。
 何かの拍子に、時折この場所に姿を見せるが、顕現に必要な依り代がないために、すぐまた狭間に落ちてしまうんだ」
 先般の事件の際に、本部へ侵入を許した挙句、存在を消された屈辱を思い出し、長義は固くこぶしを握った。
 「道理で・・・おかしいと思ったんだ。
 各本丸の協力により、2012年に侵入した敵は一掃した。
 なのに、なぜ蛍丸は敵と戦っているのか。
 なぜ、蝶は同じ場所を巡るのか」
 「・・・つまり敵は、こっちの世界のもんやあれへんってことか」
 「え?え?」
 皆が事情を察したらしい中、一人訳が分かっていない肥後大海を、三対の目が見遣った。
 「出番だよ、力士くん。
 一度、神社に戻るぞ」
 「お・・・俺?!」
 困り顔で見遣った明石が、大真面目な顔で迫る。
 「たのんます!
 うちの子、見つけたってや!!」
 
 
 藤谷神社に戻った一行は、『尚武の神』と染め抜かれた幟が立つ階段を昇り、境内に入った。
 拝殿に駆け寄った明石が、性急にかしわ手を打つ。
 「大山祇神(おおやまつみのかみ)はん、御前失礼します!
 うちの子が迷子になってしもうたんや、どうぞお力お貸しください!」
 前金や!と、明石が賽銭箱に突っ込んだ大金に、肥後大海が目を丸くした。
 「さぁ!
 やったってや、肥後の水はん!」
 「大海です・・・・・・」
 ため息交じりに呟いた肥後大海は、しかし、もじもじと肩を丸める。
 「けど・・・俺、負けてばっかりだし、そんな力・・・」
 「いい加減にするんだ、水たまりくん」
 腕を組み、高慢に顎をあげる長義の冷ややかな声に打たれて、肥後大海はびくりと顔をこわばらせた。
 「君が負けてばかりなのは、その気弱で卑屈な性格のせいじゃないのかな?」
 「そ・・・それは・・・・・・」
 いつも、親方や先輩力士に言われていることだ。
 気合が足りない、気迫が足りないと、苛立たしげに言われるが、自分でもどうすればいいのかわからない。
 「やっぱり俺、向いてないんです・・・」
 「そんなことはどうでもいいんだよ。
 ただ今、ここにいるものの中で地中の邪気を祓い、大地を鎮める神事ができるのは君だけなんだ」
 俺達は神剣じゃない、と言う長義に、明石も頷く。
 「あんたはんらがやってる四股っちゅーんが、蛍丸を追っかけてる厄介な連中を追い払えるかもしれんのや!
 大山祇神(おおやまつみのかみ)はんにも今、ようようお願いしたんやから、できるに決まってますやろ!!」
 「そうです、それに・・・」
 と、各務が遠慮がちに進み出た。
 「私達は可能性を試したいだけです。
 初めての事態で解決方法が見つからない今、やれることは全部試してみて、だめならまた別の方法を考える。
 その協力をお願いしているだけですので、まずはやってみてもらえないでしょうか」
 言いつつ、各務は明石から提供された蛍丸の写真をスマートフォンに表示して差し出す。
 あどけなく笑う子供の姿に、肥後大海は唇を噛んだ。
 「こんな・・・小さな子が、何日も山の中を・・・・・・」
 意を決して、肥後大海は靴を放る。
 神前に一礼し、裸足で力強く四股を踏んだ。
 何度も大地を踏みしめるうちに、彼が発する以上の地響きが境内を揺るがせる。
 「へぇ・・・。
 水たまりの割に、やるじゃないか」
 口の端を曲げて、長義が抜刀する。
 「おいでなすったわ!」
 邪気を払う力にたまらず、時間軸の狭間からまろび出た時間遡行軍を明石が斬り伏せる。
 「続けてや!」
 肥後大海に襲い掛かろうとする敵を次々に斬り伏せる明石に合わせ、刀を振るっていた長義は、舌打ちして一旦納刀した。
 「動きにくい」
 言うや、脱いだジャケットを各務へ放り、シャツの袖を折りあげて再び抜刀する。
 「どこまで斬れば、観念するかな?」
 「うちの子差し出すまで、容赦せんで!!」
 修羅の形相で敵の首を狩り続けるうち、周りを漂っていた蝶達が同じ場所へ群がった。
 「・・・蛍じゃなくて、蝶が来ちゃった」
 「蛍丸!!」
 懸命に平静を装っていた蛍丸は、明石の姿を見た途端、みるみる涙を浮かべる。
 「国行・・・!
 国行ぃぃぃ!!」
 泣きついて来た蛍丸を受け止めて、明石はぎゅっと抱きしめてやった。
 「もう大丈夫や・・・!」
 「うん、でも・・・!」 
 と、蛍丸が苦しげに顔を歪める。
 「蛍・・・?!」
 蛍丸を奪おうとする力に、明石は懸命に抗った。
 「なんやこれ・・・!」
 「うちの・・・神様・・・!」
 必死にしがみつきながら、蛍丸は声をあげる。
 「お願い健磐龍命(たけいわたつのみこと)!俺を連れてかないで!!」
 「阿蘇の神、か・・・!」
 眉根を寄せて、長義が呟いた。
 「奪われた神剣を取り戻そうとしているのでしょうか・・・!」
 息を飲む各務に頷く。
 「まずいな、さすがに神には逆らえないぞ」
 と、
 「どっせい!!!!」
 傍らを走り抜けた肥後大海が、見えない力に向けて突っ張りを繰り出した。
 「・・・正気かいな」
 思わず呟いた明石の声が聞こえないのか、肥後大海は夢中で腕を突き出し、じりじりと押し返していく。
 「すみません、神様!!
 俺、弱いけど・・・ちっさい子を泣かせるのは良くないと思います!!」
 「学級委員かな?」
 長義でさえ二の足を踏む神との勝負に挑む彼に、思わず皮肉を言ってしまった。
 が、すぐに口の端を曲げ、高慢に顎をあげる。
 「これだから人の子は面白い。
 それ、土俵を作ってやろう」
 長義が指を鳴らすと、周囲を漂っていた蝶が周りを囲んだ。
 しかしその中心は肥後大海ではなく、彼から数歩離れた長義だ。
 つまり、神は既に、土俵際にいる。
 「・・・さすがです」
 息をするように策を巡らせる長義に、各務は心底感心した。
 「力の差があるんだ、この程度の不利は負ってもらわなければね」
 それに、と、背後の拝殿に神気を感じ、振り返る。
 「こちらもおいでだ」
 「大山祇神(おおやまつみのかみ)はん・・・!」
 蛍丸を抱きしめたまま、明石が肩越しに見遣った拝殿に光が満ちた。
 「勝負の神さんが、味方についてくださった!
 肥後大海はん!
 気張ってや!!」
 「はいっ!!」
 足を踏みしめ、力を込めて突き出した掌が、目には見えない大きな力を押し出した。
 途端、蛍丸を奪おうとしていた力が消え、明石は勢い余って背中から地面に倒れ込んだ。
 「く・・・国行、大丈夫?!」
 「あぁ、平気や」
 地面に寝転がったまま、蛍丸の頭を撫でる。
 「神さんから取り戻したで・・・!」
 「国行ぃぃぃ!!」
 明石に縋りついて泣く蛍丸の姿にほっとした肥後大海は、その場にへなへなと座り込んでしまった。
 
 
 翌朝、熊本駅にて。
 改札前で振り返った肥後大海は、とてとてと走って来る蛍丸に目を細めた。
 「肥後大海さん、ありがとぉ」
 猫のようにきらきらと輝く瞳で見上げられ、思わず顔がほころぶ。
 「いえ・・・。
 ちゃんと助けることができて、よかったです」
 しゃがみこんで目線を合わせると、蛍丸は彼の膝に手を置いて、にこりと笑った。
 「ね、いいこと教えてあげる」
 そっと囁く彼に耳を寄せると、くすくすと笑う。
 「大山祇神(おおやまつみのかみ)が、面白い勝負を見せてくれてありがとうって。
 そんで、健磐龍命(たけいわたつのみこと)は、我を失っててごめん、だって。
 お礼とお詫びに、二柱からの加護をあげる、ってさ」
 「それって・・・!」
 「元気でね」
 くるりと踵を返した蛍丸が、やや離れた場所に立つ明石の元へ戻っていく。
 「改めて、お世話になりましたな、肥後大海はん。
 自分、神剣やないからなんの加護もあげられんけど、応援しとりますよ」
 「あ・・・ありがとうございます!
 俺・・・今度の場所は勝てる気がします!」
 「そうだな。
 何しろ君は、神を相手に勝ったのだから」
 皮肉げな声を見遣れば、長義が腕を組んで立っていた。
 「君はね、実力は申し分ないのに、気弱で卑屈だから勝てなかったんだ。
 君の周りの人間も、それが歯がゆくて、君にきつく当たったのじゃないかな」
 「あ・・・はい・・・。
 そうだとおもいます・・・・・・」
 親方も先輩も、ここまできつく言わなかった、と思いながら頷くと、長義は高慢に顎を上げ、笑みを浮かべる。
 その美貌には、思わず見惚れた。
 「健闘を祈るよ、力士くん。
 水たまりも、何かの間違いで大海になるかもしれない」
 「はい・・・・・・!」
 大きく頷いた肥後大海は、勝負に挑むべく、福岡へと旅立って行った。
 
 
 「・・・やれやれ、面倒だったな」
 明石と蛍丸を元の本丸に返したのち、戻った執務室で、長義は深々と吐息した。
 「お疲れさまでした」
 空になった茶器を回収し、やや熱い茶を淹れて差し出す各務へ、長義は向き直る。
 「ようやく一件目だ。
 この程度で疲れてなどいられるか」
 それにしても、と、横目でタブレット端末を見遣った長義は、またため息をついた。
 「こんなに行方不明者が多いなんて聞いてないぞ!
 俺は何度『ちょっと茶を飲みに』来ればいいんだ!」
 「は・・・はい、でも・・・!」
 「なんだ!」
 苛立たしげな長義に、各務は頬を染める。
 「またご一緒できて・・・光栄です!」
 盆を抱えたまま、最敬礼する各務には、さすがの長義も毒気を抜かれた。
 「・・・ふん。
 他の政府顕現刀に怪しまれないためにも、せいぜいうまい茶を淹れるんだな」
 「承知しました」
 嬉しげに顔をあげた各務は、ふと思い出して、いそいそとテーブルに置かれた衣装箱を取り上げる。
 「では次の案件に向けて、衣装合わせを・・・!」
 「俺は着せ替え人形ではないぞ!」
 声を荒らげながらも、長義は各務が差し出す衣装箱を受け取った。
 
 
-了-
 
 
 
【あとがき】
長義と各務の怪奇事件ファイル、なる話をご隠居様のTwitterでチラ見してから、『何か思いついたら書こうかな』と思いつつ数日。
『明石がいるのは両国の刀剣博物館だから、仮の主は力士かもね。
だったら、怪異の正体は蛍丸?
阿蘇の神社に!!勝負事の神様いたよね?!
しかも、9月下旬の黎明事件から間もなくなら、10月の話!九州場所開催直前!!』
ということで、一気に流れが決まったのでした。
しかしここで問題が。
自分で思いついたネタじゃないんだから、使用許可がいるでしょうよ。(当然)
と言う訳で、提供者のご隠居様とRicky様にご連絡し、許可をいただきまして作成いたしました。
ちゃんと、『時の政府職員の長義が仮の主各務さんと現代の怪異に挑む特撮公務員バディドラマ!』になっているでしょうか。
お楽しみいただけると幸いです。

見えないところ/凡ト

高速道路上に、緊急車両の赤い光がいくつも閃いている。消防車、救急車、パトカー。赤くこそないがレッカー車。

振り返れば、遠目にも渋滞が始まっているのがわかった。トラックと乗用車が左右に寄って連なり、その隙間を黄色い車がしずしずと徐行している。よくわからないが、あれも緊急車両だろうか。

小さい子がいたらテンアゲ↑だったかもね〜、と横目で見つつ、実弦はキャリーを引いて指定されたパトカーへと寄っていった。

それこそ小さい子ならテンションMAXになるだろう、これから人生初のパトカー乗車である。どうしてこうなった。いやあのジカンソコーグンのせいであることは明白なのだが。

「あ、女の人だぁ〜! うれしー! よろしくお願いしまぁす!」

「お疲れ様です」

実弦の下手くそな敬礼に、びしっとしたものを返して笑ってくれたのは、30歳前後と思しき女性警察官だった。もうひとり、運転席に男性警察官がいて、パトカー内の無線に向けて何か話しかけている。

バス自体はおそらく無傷なのだが、総点検をせねば乗客を乗せて走るわけにはいかないらしい。そもそも死者が出なかったことが奇跡、怪我人はもちろんのこと気分を悪くした者も続出した。少しでも巻き込まれた人間は、ひとまず全員病院行きと指示されているーーー実弦と、その連れを除いて。

実弦は、先ほど内閣官房国家安全保障局(名前が長い)から送られてきたPDFをスマホに画面表示して女性警官に提示する。警官は警官で、自分のスマホと実弦を見比べているようだった。顔写真でも送られてきているのだろうか。ちゃんと盛れてるやつかなぁ、と、連れに聞かれたら怒られそうなことをちらっと思う。

女性警官は頷くと、運転席の男性に向かって一言二言話しかけた。照会は済んだらしい。どうぞこちらへ、と手を伸べて、実弦がパトカーにキャリーを積むのを手伝ってくれる。その際、ちらりと長谷部との距離を目測し、そっと実弦の耳元で囁いた。

「お手洗い大丈夫ですか」

おぉ、と少し感動する。非常事態に張りつめていた心が、ふんわりと日常に帰ってくるのを感じた。

「あーね、行っときたいかも?」

「わかりました。最寄りのパーキングエリアに寄りますね。お座席どうしますか。お二人は後ろに座っていただきますが、もしご希望なら、わたしもそちらに」

……んん?

実弦はつけまとマスカラでもりもりに盛った睫毛をパサパサとしばたいて、女性警官の顔を見返す。

トイレの話までは、同性ならではの気遣いかと思ったが。これは何かもっと、違うもののような……?

「えっと……なんで?」

女性警官は少し首を傾げ、手を、と言いながら自分も両の手のひらを上に差し出して見せる。左の薬指にシンプルな指輪がはまっているので、既婚者なのだろう。よくわからないながら実弦もそのようにし、あ、と気づいた。

「ちょっと失礼しますね」

女性は一言断ると、実弦の指先をきゅっと握り込む。実弦と違って爪が短く切り揃えられ、皮が硬い手。とても温かい。否、実弦の指先が冷えきっているのだ。

「がんばりましたね」

細かく震える指先を労られて、実弦はぐっと奥歯を噛んだ。こみ上げそうになったものを慌ててこらえる。

まだだ、まだだめだ。今ここで糸を切らすわけにはいかない。

虚ろに惑わされぬ、破魔の弓たれ。

おののく口元を𠮟咤して、なんとか声を絞り出す。

「あっいやー、これは違くて。あたし、えっと、冷え症で……」

「そんな脚を出した格好をしてるからだろう」

後ろからひょいと顔を出した長谷部が憎まれ口を叩いて、助かった、と実弦は思った。大袈裟に表情をつくる。

「へっしー、言い方が古〜い! お父さんみた〜い」

「誰が父親だ、誰が!」

きゃはは、と笑いながら、実弦は長谷部に続いてパトカーに乗り込んだ。振り返って女性と目を合わせ、声を出さずに唇だけを動かす。

だ い じ ょ う ぶ 。

警官は小さく頷くと、では、と外から扉を閉めた。

 

***

 

とあるパーキングエリア、女子トイレ。

実弦は、個室に入るなり鍵を閉め、崩れるように座り込み、スマホと財布とハンカチだけを持った手で己の体を抱き込んだ。

「はぁ〜〜〜〜〜〜…………」

深い溜息が漏れる。

呼吸を数えることしばし。よし、と改めてスマホをペーパーホルダーの上に置こうとして、カツカツカツッ、と小さな音がした。今回のために気合いを入れてデコった爪が、スマホの画面にあたって音を立てている。まだ指先が震えているのだと気づいて、はは、と小さく笑いが漏れた。

「しょ〜がないよねぇ〜……」

命の危機に瀕してから、まだ幾らも経っていない。時代劇くらいでしか見たことのない、刀での戦い。しかもガチの殺し合いだ。あの時、へし切長谷部は素人目にも劣勢だった。

死ぬかもしれない、と思った。

へし切長谷部の仮の主という立場になるにあたって山ほど書かされた書類、その中に遺書が含まれていた意味を、今さらながらに実感する。

襲撃にあった時はただただ必死で、助けを呼ぶにも、あるいはここで負けて死ぬにも記録を残さねばとカメラを起動させた。常日頃から大学の研究室で叩き込まれているお作法である。記録は大事だ。人の記憶は思い返すうちに変質するし、記録があることによって後日違う発想の起点となることもある。

(へっしーは、おこだったけどぉ!)

まぁ『あなたが負けた時に備えて少しでも政府に情報を残そうと用意していました』とは言えないので、潔く謝った。それでも写真は消していない。遡行軍がいなくなった後にはなったが、内閣官房国家(以下略)にも写メは送った。返信で届いたのがパトカーを手配する旨と、その際見せるように指示されたPDFである。

きっと、自分は何度でも同じことをする。己にできることは、へし切長谷部のため近くに居続けることの他、それくらいしかない。

死ぬのは怖いことだ。

それはよくわかった。

だが、直系でなくとも黒田の名をもち福岡で育ってきた自分が、ここであの刀から逃げるわけにはいかない。

「……障害にあい、激しくその勢力を百倍しうるは水なり」

ぱん、と両手で頬を叩いて、実弦は再度気合いをいれた。

とりあえず、あったかいものでも買おう。

 

40000メートルの先に世界/あの

朝。
出勤する人々であふれかえる札幌駅のホーム。
新千歳空港行き快速エアポートの乗り場にも多くの人が並んでいる。
その電車を待つ中に交じり、竹刀袋を肩にかけた女子高校生の姿があった。

同じ年頃の平均より少し背が高い彼女が来ているセーラー服は、電車が向かう方角にはない学校のものだ。
だが出勤時間の混雑の中で誰もこの少女に目を止めるものはいなかった。
(このままだと、本当に学校をさぼることになるなぁ?)
電車がホームに入ってくる音や構内放送の騒々しさの中で、少女、深磨(ミマ)は自分にそう確認した。
(その上ずいぶん遠くに行こうとしてるけど。本当に実行するつもりかな?かっこつけて、良い人のフリして)
学校に行く時と全く同じ涼しい顔つきのまま、内心ではもう何度も自分につぶやいている。
面白いことに夕べ遭遇した怪異から深磨の腹はぼんやりと決まっていて、その自分の心境に動揺した推測15パーセントほどの正気が確認作業を機械的にピリートしている状態だった。
やがて電車が大きな音を立てて入ってくる。
(うちの学校厳しいし、二時間目にも出なかったらきっとすぐ家に連絡するよ。失敗する前に戻ったら)
ドアが開く。
(子供の頃から貯めてたお小遣いだって、どこまで足りるか解ら)
深磨の足が前に進む。
「どうにかなる」
乗り込みながら呟いた深磨の耳に、夕べから知っている声が響いた。
『すまんのお。できるだけどうにかするき』

 

前日の夜のことである。

部活後、ノロノロとした足取りで帰路についていた深磨が、人気のない公園前に差し掛かった時だった。

ツンと空気が引き攣った妙な感覚とともに彼女の前に突如黒い靄が立ち上がり、瞬く間に幾つかのにょろりとした骨になって襲い掛かってきた。

なんだ、これは。

と脳が混乱するのとは別に身についた動体視力と反射神経が働き、深磨は襲い掛かってきた最初の一匹の横っ面を学生鞄で張り飛ばした。

直後、パン、パン、パンと乾いた音が響き、張り飛ばされて横に落ちたにょろりと、続けて襲い掛かってきていた残りのにょろり達が塵となって消える。

「……げにめっそう、ざまなはちきんじゃ!」

かわりに呆れ顔で現れたのが、訛りのきついその男であった。

刀剣男士・陸奥守吉行と名乗ったその男は元々ほかの時代に出陣中だったという。

それが帰還のとき、何が起こったのか時空の経路がねじれ、一人だけこの世界に弾き飛ばされたらしい。

審神者、刀剣男士、時間遡行軍、時の政府。まるでSF小説のような話だった。

けれど事態は深磨の目の前で起こったのである。

主の力が届きづらくてうまく動けん。わしの姿が見えるなら、少しの間だけ、どうかどうか力になっとおせ。

正直そんな事情に自分が力になれるかわからなかった。

が、陸奥守の存在と彼から聞いた話は事実なのだと思った時、心の片隅に湧き上がった僅かな期待も手伝って、深磨は彼の名を口にしていた。

陽風のみち/舜由

 

「ごめん、彩。別れてほしい」

その言葉を聞いたとき、心のどこかでああやっぱり、と声がした。映画館デートのあとは喫茶店に寄るのがいつものコース。少しでも一緒にいたくて、初めてのデートでお願いしてから習慣になった約束事。またか?と言いながらも先輩は毎度付き合ってくれていた。今日は何も言わずにそうしようかとうなずいたから、何かあるとは思っていたのだ。

予感がなかったわけじゃない。

先輩はばかだ。女の勘は良く当たるという言葉を知らないんじゃないだろうか。

好きなひとのことだから、良く見てるに決まってる。話の内容とか、相槌の打ち方とか。わたしじゃない誰かの方を向いてることが増えてきたことに気づかないわけがない。自分の方を向いてるかどうかくらい、流石にわかる。

でも、わたしも先輩とおんなじくらいにばかだ。

わかっていて、見えないふりをしてた。

決定的な言葉を聞くまでは何とかなるんじゃないかって、ずっと。

指が冷たい感触を撫でる。

誕生日のときに先輩がくれた銀のバングル。

『彩に似合うと思って』とくれた贈り物だった。撫でるのは既に無意識の癖になっている。

どうしてと、縋ることもできた。泣きながら詰ることも。でもそんなことをしたって、先輩がわたしのことを振り向くことはない。これ以上みじめになりたくなかった。頭も自分の思いもぐちゃぐちゃで、胸が痛い。先輩の笑顔がすきだった。幸せになってもらいたいのに、応援する言葉が喉でつかえて出てこない。

「…はい」

結局何も選べなくて、その一言だけを喉から絞り出した。俯くしかできない自分が嫌になる。

ほっとした先輩の顔だけがその日の記憶の最後。

そのあとどんな話をして、どう帰ってきたのか、記憶にない。

つらくて、かなしくて、さびしくて、苦しかった。

 

「おはよう」

「おはよう」

クラスメイトの挨拶が耳を通り抜けていく。

ぼんやりと学校への道を足は辿る。心はどうあれ体は動いた。ごはんも入らないかと思ったら思ったよりも食べられるし、母親に送り出されれば学校にも行ける。共働きの両親は帰ってくるなり部屋にこもったわたしに何も聞かなかった。聞かれたら、話すことになる。思い返すことも辛かった。

何をしても楽しくない。ひとの声が煩わしい。

首に掛けていたヘッドフォンを着ける。

余計な音が減って、そこにはわたしだけの世界が広がった。プレイヤーの音を流せば、友人と選んだ気に入りの曲が流れてくる。

『こんなこと言うと、馬鹿だって思えるかもしれないけど…わたし、色んな声がひとより良く聞こえるの。それがうるさくて、耳を塞ぎたくなる』

一緒に入れる曲を選んでくれた琴音は、そう彩に打ち明けた。知り合ってから半年とちょっと。大人しくて、優しくて、芯の強い女の子。普通なら電波か頭の痛い子としか思われない話をする琴音の瞳は真剣で、きっと本当のことを話しているんだと思った。何度か何もないところで耳や頭を抑える姿を見ていたこともある。世界の見え方はひとによって多分違う。琴音の見ている世界は、彩に見える世界とちょっと違うのだろう。

だけど、それが何だというのだろう。

彩は琴音のことが友だちとして好きだった。その友達がこんな風に打ち明けてくれたことを大切にしたいと思った。

音なら、音で消せばいい。

その考えが浮かんだのは、塾の帰り、繁華街にある楽器店のショーウィンドウに飾られていたヘッドフォンを見たときだ。白一色の、何の変哲もないシンプルなモデル。明るい陽射しが似合う琴音にぴったりの色。まだ先輩とは付き合いたての時期で、手元にはたまたま、彼への誕生日プレゼントを買おうと思って貯めていたお金があった。

二つも買えば、それなりに値段は張る。

先輩へのプレゼントは少し遅れても何とかなる。予定のものよりは金額も質も落ちるけれど、何を贈るかも話していないし、わかってくれない人じゃない。

「これ、二つください」

気付けばわたしは白のヘッドフォンを二つ抱えて家に辿り着いていた。

少し緊張する。琴音は喜んでくれるだろうか。余計なことをと思われないだろうか。

次の日、二人になったときを見計らってプレゼントを渡した。

お金を、とわたわたと財布を取り出そうと焦る琴音の姿にほっとして、早めの誕生日プレゼントと嘯く。

それから琴音の首には白いヘッドフォンが当然のように掛けられるようになった。彼女が使ってみた感想を教えてくれたとき、確かこんなことを言っていた。

『ノイズにしか聞こえない音が消えるだけで、すごく楽。ありがとう、彩』

その気持ちがわかる気がした。

今のわたしには、意味はわかるけれど言葉がノイズのように聞こえる。

好きな音楽だけ聞こえる世界は少しだけ息がしやすい。

 

…琴音の見ている世界はこんな感じなんだろうか。

 

 

「…ーや、彩!」

「えっ…?」

菜摘の声が聞こえて、周りを見渡す。

教室だ。

(わたし…確か、登校してて…ヘッドフォン、つけてなかったっけ…?)

「琴音ー!! 彩がおかしくなっちゃったー!!」

なんだか、頭がぼうっとする。自分が薄くなっていくような。

 

わたし、は…。

 

強い眠気に襲われて彩は意識を手放した。

 

 

 

 

目が覚めて一番に見えたのは真っ白い天井。

どうして自分が寝ているのか分からなくて身を起こす。まだ頭がぼうっとする。着ているものも高校の制服ではなく、よく医療ドラマで見るような服に変わっていた。

「ここ…どこ…?」

顔を動かして見た建物の先に、名前らしきものが僅かに読み取れる。

(…東…央…?)

その名前がついている建物を、彩は一つしか知らない。地域の中でも大きめの病院だ。救急車がよく乗り入れているのを見かける。

(何でそんなところに、わたしが…?)

今まで、病気らしい病気なんてしたことがない。病院とは無縁の生活を送ってきた。それがなぜ。

わずかに開けられた窓から入ってきたそよ風が頬を撫でる。気持ちが良い風だった。吹き込んできた何枚かの淡い桜の花びらが渦を巻く。差し込んできた日光が一際強くなった。視界が真っ白に焼ける。眩しくて目を瞑った。光は次第に収まって、人のかたちに変わる。頭の先から爪先までほぼ真っ白で、着ている服も和装。肩に鞘に入った日本刀を担いでいるが、まるでそれが当たり前であるかのように馴染んでいた。コスプレと感じなかったのは、着物の人物がとても人のようには見えなかったからだ。かたちは人でも、血が通っている感じがしない。ひやりとした何かを感じる。そのひとは彩に微笑みかけた。人にしては美しすぎる。空間が光の粉を撒いているようだ。端正にすぎる珊瑚の唇が気さくに綻ぶ。

「俺みたいなのが来て、驚いたか?」

喋った。

動くことは分かっていても、喋りかけてくるとは思わなかった思考が止まる。茫然としたまま肯いた。起きたまま、わたしは夢でも見ているんだろうか。

「俺は鶴丸国永だ」

「つるまる、くになが…」

顔はアイドル事務所のようにきらきらしているのに、名前は妙に古くさかった。太郎とか次郎とか、そんな感じの。

「きみたちでいうところの、神様ってやつだ。元は太刀…刀が長い時間を過ごして、色々あってこうなってる。まあ未来から来た宇宙人みたいなもんだ。ちょっとばかりこの時代でお祭り騒ぎがあってな。少しの間邪魔したら帰るから安心してくれ」

「かみさま…ですか。色々って?」

「その言い方は信じてないな。この時代のひとの子らしい。あんまり話せないんで、そのあたりは聞かないでくれ。話したところで時期に忘れる。俺のことは…そうだな。つっさんと呼んでくれ」

「…え?」

聞き捨てならない言葉が聞こえた気がして、我に返る。

つっさん?

そんな、おっさんみたいな。こんなきらびやかなひとをそんな俗な呼び方で。正気だろうか。

「いや、流石にそれは…鶴丸さん、でいいですか」

鶴丸さんの眉がみるみる下がり、肩が落ちる。ついでにフードも被った。どうやら、落ち込んでいるらしい。

わたしはどうにも、変なかみさまに出会ったようだ。

 

かみさまは『祭りが終わるまで暇だから、このままお喋りに付き合ってくれ』と話した。参加しなくていいのかと問えば、ここにいることに意味がある、と返される。かみさまにも色々あるらしい。合コンの数合わせのようなものなのかもしれない。

いざ喋ってくれと言われても、鶴丸という名前と自称神様であることくらいしかわからない。自然と彩の方から質問を投げかける形になった。

「…どうして、ここに来たの?」

「馴染みがちょっとやらかしてな。このままだときみも危険になるってんで、きみの友人から護衛を頼まれた。名前は何て言ったか…こ…こ…、…声音…?」

「…琴音?」

「それだ!」

御名答! とポーズを決めてきた鶴丸に頭が痛くなる。かみさまって皆こんななのか。新年の初詣なんて、誰も名前を覚えてないのかもしれない。

「それで、琴音は」

「あー、それなんだがな。さて、どこからどう話したもんか…」

考え込む素振りを見せたかみさまの傍に友人とお揃いのヘッドフォンが置かれているのが目に入る。指を慣れた調子で手首に下ろし、引っかかる感触がいつもと違うことに気がついた。よく見れば柔らかいナイロンの輪っかしか手首には引っかかっていない。

ない。

慌てて体の周りや棚の中を探す。中にあった自分の荷物の中もひっくり返して確かめていくが、細い銀色は影も形もない。

どこかで落とした?

まさかそんな。毎日身に着けていたから、ヘッドフォンがあるならここにもあるはずなのに。運ばれるときに先生に没収された?

「探しものかい?」

「鶴丸さん、ここにバングルがなかった?」

「バングル? ああ、腕環か。それなら琴音が借りて行ったぜ」

「琴音が?」

「あっ…」

言っちまった、と両手で口を大仰に抑える鶴丸に彩は胡乱げな目線を向けた。このかみさま、嘘をつくのに徹底的に向いていない。

「まあそう怒るな。これには深ーい事情があって…」

「まさか琴音、先輩のところに行ってたりしないよね?!」

「先輩?」

「そう。わたし、付き合っていた人がいたの。振られたけど」

口にするとまだ塞がれていない心の傷が痛む。それを無理矢理抑え込んで白いかみさまの反応を伺った。琴音は優しい。私が贈ったヘッドフォンも私以上に大事にしてくれる子だ。あの子のヘッドフォンはいつも綺麗にされていて、大切にしてくれてることが一目でわかる。そんなあの子が最近の私の様子を見ていて、見かねて突撃した…なんて、ないとも言えない。大人しいけれど爆発したときにはエネルギーがものすごいのだ。

「なるほど、…ふっ、あははは! そう来たか!」

「笑いごとじゃないんだけど…?!」

腹を抱えて爆笑し始めたかみさまの肩を思わず叩く。

「ああ、いやいや。そんな心配は万が一にもないから安心するといい。琴音とやらは無事だ。俺の友が傍にいる。何かあっても、あいつらが必ず守るさ」

「何かあっても、って…琴音、危ないことに巻き込まれてるんじゃ…」

「悪いやつらじゃない。性格は少々…いやかなり面倒だが、可愛いもんだ。どこのあいつらも揃ってやらかすとろくなことにならないのだけは驚いてるが。いっそ感心すらするぜ」

「それは…」

とても面倒なんじゃないだろうか。

彩の考えていることが伝わったのか、鶴丸は相好を崩した。

「飽きないってのはいいことだ。驚きが溢れてて、心が死ぬ暇がない。俺はあいつらの傍を止まり木に選んでもいいと思う程度には気に入っているのさ。きみ、面倒かどうかで友人を選ぶかい?」

「ううん」

少なくとも、彩は琴音をそう思ったことは一度もない。

「そういうことだ。ああ、煙草が呑みたいんだが」

「ここじゃあ、多分無理。行けるとしたら…」

「上か。なら行くか」

「わたしだけならなんとかなるかもしれないけど…鶴丸さんは…どうかなぁ…」

頭を捻る彩の腕ががっしりとした掌に掴まれる。そのまますたすたと鶴丸は歩き出した。歩幅の違いに自然と早歩きになる。病院の廊下は慌ただしかった。機械の音、人が混乱している声。

「俺は仕事に戻らないと」

「待ってください、先生の許可が出ないと無理です」

「ならその先生とやらを呼んでくれ、俺は何ともないんだ」

彩と同じ服を着た壮年の男性が、年若い看護師と言い争っている。他にも「こちらも目を覚ましました!」

「わたし…どうしてここにいるんですか?!」と声が飛び交っている。誰も、こんなにも目立つ鶴丸と部屋を離れる彩に気を止めない。ちょうど来ていたエレベーターまでなんなく乗り込み、最上階へと浮上する。

「…どうして…?」

「考えるより生むが易し、と言うじゃないか。屋上か…わくわくするなぁ?」

白いかみさまは、にこにこと小学生の男子が浮かべるような表情を浮かべていた。

 

それなりに高さのある屋上には人の子ひとりいなかった。古めかしい金網のフェンスが背丈の2倍ほどの高さで立てられている。

「おぉー! なかなかにいい景色じゃないか! あそこに見えるあれは何だ?!」

「たぶん、六本木ヒ●ズ」

「あれは?」

「東●タワーかな…?」

豆粒のようなそれらを鶴丸は瞳を眇めて見た。

「…確かに此処からはよく見える。高い建物が少ないのか」

「確かこのあたりは、高い建物を建てちゃいけないってなってるって聞いたことがある」

「好都合だな」

「鶴丸さん、煙草は?」

「ん? ああ、ちょうど今葉を切らしてたのを思い出した。刻み煙草派でな」

「神様にも煙草の派閥ってあるの?」

「そりゃああるさ。煙草の側から嫌われる場合も多々ある。直近は煙が出ないものもあるんだろう?」

「電子煙草だね」

「便利な世の中になったもんだ。恋文のやりとりもずっと速く楽になったんじゃないのかい」

「そうでもないよ。誤解を生んだり、気持ちが見えなくなったりする」

見えないもののほうが多いくらいだ。先輩と、自分みたいに。

「あんまり思い悩みすぎると、鬼になるぜ」

「ええ…?」

「きみはそういうものになるなよ。過ぎた感情は夜叉にも鬼にもひとを変える。それが招くのは大概不幸な結末だ。そんでもって大体俺たちみたいな刃物が使われる。まったく良い迷惑だぜ」

白いかみさまはくつくつと笑い、月の色の目を細めた。彩は己が見ていたものがわからなくなる。鶴丸国永がぐっと歳老いたように感じられた。若木だと思って見ていた木が何百年も経った老松であったことに気付かされたような感覚。語られているのは彩には理解できない理だった。明らかに異質な壁が彩と鶴丸とを隔てている。

「そういうものなの?」

「ひとの子には俺たちの声は聞こえない。ごくまれに斬らないことを徹底できるやつもいるが、そんな奇跡は何度も起こせない。物事の時機ってのは俺たちにも何ともできない御業だからな」

「神様なのに?」

「きみたちの先生も教科に別れているように、専門が違う。俺たちは斬ることが本分だ」

月色の瞳孔が獣のように開かれた。蛇に睨まれた蛙のように、息が詰まる。

「主の敵、俺たちの本能を侵す敵を屠る。俺たちはそのためにこの身を得た」

そしてそれはきみじゃない、と肩を叩かれる。その時初めて、彩は息をするのを忘れていたことに気付いた。

背筋が冷たくなる。本当にこのひとは神様なのかもしれない。この神さまは、氷山と同じなのかもしれない、と。

不意に鶴丸が彩を背に庇い、片足を引いて半身を取る。いつ抜いたのか正眼に刀を構えていた。

「下がってな」

赤い稲光が地響きとともに病院の廊下に突き立つ。黒い靄が舞った後に、無数の何かが姿を表した。

黒く、暗く、赤い目だけが爛々と幽鬼の顔に輝いている。思わず込み上げてくる気持ち悪さと背筋を這い上がる寒気に口元を抑えた。あんなの、ゾンビ映画の中くらいでしか見たことがない。ばけものたちが鶴丸を認めてざわめいた。

「それが…あれ?」

「そうだ。俺たちは、きみらが人生を交差し、流れとなって大河を成した先にいる。道半ばに散ったいのちも、最後まで生の意味がわからず天寿を全うしたいのちも、人を踏みにじって栄華を手に入れたいのちも。すべてそのままに、歴史として守るのが使命だ」

「…難しい、話だね。どちらに傾いてもいけないんでしょう?」

理は違えども、この僅かなやり取りの間に感じ取れたことがある。鶴丸国永という存在はひとと同じ心も持ち合わせているということだ。己は刀だからと割り切れるものだろうか。

「…ここに来た甲斐はあったな」

「鶴丸さん?」

「きみが仮の主で良かった、という話さ」

「…え?」

「俺たちも流石に主から離れて長くは活動できない。特に人目の多いこの時代ではな。そこで俺は、きみを仮の主に選んだ」

「いつ?」

「名前を呼んだじゃないか」

「あれだけで?!」

「驚いたか? 政府の職員の努力の賜物だ。ここは褒めてやるところだぞ?」

「努力の方向性…」

「…と。お喋りもここまでだ。目を瞑って、十数えてな」

幼子をあやすように優しい声が掛けられる。

頭を振った彩に鶴丸は頭を撫でた。仕方のない子だ、と言外に聞こえる。

鶴丸の友が琴音の傍にいるということは、琴音もこの意味の分からない化け物と向き合っているということだった。

鶴丸は斬ることが本分だと言った。なら斬れるのだろう。見ておかなければならない気がする。鶴丸国永という神さまの、その姿を。

「この時代の主も見ている。恥じない活躍をしないとな。さあて、大舞台の始まりだ!」

見栄を張った鶴丸は一飛びで数メートル離れた敵の懐に飛び込んでいた。いつ抜かれたかわからない刃が両断する。速い。

「一…」

返す刀で、背後に迫っていた空飛ぶ敵を斬り落とす。

「二…」

右横から飛び込んできた敵の袈裟懸けを紙一重で避け、踵を落とす。

「三…」

その足を更に踏み込み、空を舞った。同士討ちをした怪物たちの体が地面に着くころ、天目掛けて繰り出された槍の穂先を弾いて柄を滑りながら回転斬りを決める。目を逸らさず立ち向かって行く背。怖くはないのだろうか。

「四…」

「いいねえ、今のは驚いた! 今度はこっちの番だな!」

敵の霧散を隠れ蓑に繰り出された刀を避けそこねて頬が浅く斬れるも、神さまはかえって楽しそうに笑った。子どもが気に入りの玩具を見つけたような無邪気さがある。

「五…」

彩のカウントに合わせ、白い体が低く沈み込む。

四方から致命傷を狙った刃が何十にも繰り出された。

だがそれは鶴丸の速さには及ばない。

「六…」

「後ろだぜ」

敵円陣の一部がごっそりと消え失せる。白い羽織が舞って、崩れていない円陣の一角から幾つもの首が飛んだ。

「七…」

美しい舞を見ているようだった。

鶴丸が動くたび、敵が斬り伏せられていく。数はもう初めにいた三分の一しかいない。

「八…」

ぽつりと地面に液体が落ちる音がする。鶴丸も無傷ではなかった。点々と白い衣装に不揃いな牡丹の花が咲いている。またしても背を狙った攻撃に、鶴丸の瞳が細められた。

「相手をしてほしいなら、もう少し工夫してくれ。驚きがない」

「九…」

一際大きな刀を振りかぶった敵の前に鶴丸はふわりと降り立った。避けようともせず、刀の血を拭い眼前で鞘に収め始める。ありえない動作に胸がざわめく。

鶴丸さん、危ない。やられちゃうよ。

納刀の動作は止まらない。鶴丸には勝算があるのだろう。

息を吸った。

重たい刃が勢いをつけ振り下ろされる。刃が鶴丸の髪に触れる、そのとき。

空が一際激しく輝く。

黒雲が一息に晴れ、金色が満ちた。雲によってできた光の柱が何本も空高く伸びていく。

「…十」

チン、と涼やかな収めの音が空間に静かに響く。

その音を皮切りに敵の刀と胴が斬られた面に沿ってずるりと落ちた。地面に落ちる前にほろほろと崩れて見えなくなる。ところどころを紅く染め上げながら、鶴丸は刀を肩に担いだ。瞳と同じ色の晴れ渡った空を見上げる。彩もつられて追った。いつもと変わりない夕暮れだ。

「…この特命調査もこれで終わりか」

もう敵は残っていない。

風に乗って桜の花びらが漂い始めた。

彩と目があった鶴丸は初めて会ったときと同じ優しい微笑みを浮かべる。この起きたまま見る夢の終わりが近づいていた。

「きみの友が、やってくれたようだな」

「…やっぱり琴音を危ない目にあわせていたんじゃない」

前言撤回。この神さま、息をするように誤魔化してしかもそれを悟られない、一番厄介なタイプだ。

「そうかい?」

「怪我、してないといいけど…」

「それはないさ」

「鶴丸さんの友だちがいるから?」

「…あれはなあ。強いが真面目で不器用がすぎる。自分の傷よりも他人を庇うようなやつらだぜ。多かれ少なかれ、三日月宗近と山姥切国広ってやつはそうなんだろうさ」

鶴丸の語尾が僅かに揺れた。先程まで場を支配していた圧は搔き消え、白い羽織が風に所在なげにはためく。

彩には鶴丸の所在なさがどこから来ているのかわかるような気がした。今の彩にはとても覚えのある感情。寂しさに匂いがあるなら、きっとそれだった。

「…喧嘩でもした?」

「いや? させてももらえなかったからな」

「文句を言ってやりたいとかは」

「いつか引きずり出してやるつもりではいるから、その時まで預けておくさ。きみこそどうなんだい」

「…まだ、良くわからないよ」

ありえない驚きの連続で悲しみは少し薄らいだ気はする、と零せば、相手は破顔した。

「良いことじゃないか」

「え?」

「少なくともきみの心は死んでいない。俺と話したこの記憶がなくなっても、何かは残るさ」

鶴丸の輪郭の先に景色が淡く透けた。もう時間がない。

「…もう行くの?」

「そうだな。もうここに用はない」

あまりにあっさりとした物言いに思わず上背を見つめた。ただお喋りをしていただけで長らく共に居た気の置けない友人のような気がする。こちらの目線に気づいて鶴丸は屈託なく笑う。

「きみらが思うがままに紡いだ明日の明日、そのまた先でなら、会えるんじゃないか」

何でもないことのように言ってくれる。

人間だって大変なのだ。食べて、動いて、息をして、恋をして。それに振り回されながら、いのちを燃やして走っている。まっとうするのだって楽じゃない。

それでも。それを見守り守るのがこんな存在なら。

「また、どこかで」

現れたときと同じ閃光が走った。強い風が吹いて花嵐に鶴丸の姿が覆い隠される。

風が止んだとき、そこには何もなかった。戦いのあとも何もかも。

「…ありがとう、神様」

ひらり、と。

斬られた桜の花びらが彩の掌に落ちてきた。

 

こなたかなたに / くれは

 「なぜ・・・俺なんですか・・・・・・?」
 審神者の命を受けたへし切長谷部は、愕然として呻いた。
 2025年秋。
 本丸の庭は紅葉に染まり、林間を吹き抜ける風が冷やかさと共に、熟した葉の甘い香りを運んでいた。
 いつもと変わらない、平和な本丸。
 今日も、命じられるのは馴染んだ時代への遠征だと思っていた。
 なのに。
 突然、2012年へ行けという。
 それも単騎で。
 たった一振りで任務を命じられるというのなら、自分よりふさわしいものがいるだろう。
 「畏れながら・・・単騎でということでしたら、大太刀や薙刀の方がふさわしいのでは。
 また、短刀や脇差の連中には、既に極めたものもいます。
 俺はできることなら、主のお傍に・・・」
 顕現して初めて、主へ反駁した。
 我ながら信じがたいことだと、額に汗をにじませつつ低頭した彼に、審神者は『熟慮した結果だ』と言う。
 「主・・・・・・!」
 あなたまで俺を手放すのかと、絶望と共に見上げた審神者はしかし、楽しげに微笑んだ。
 「政府より、各本丸自慢の一振りを出せとの命令だ。
 我が本丸で最も練度が高く、最も忠誠心厚く、最も責任感のあるもの。
 そして、絶対に我が元へ帰るもの。
 お前の他にいるのか?」
 「主・・・!」
 つい先ほどとは、全く逆の声音で呼びかけた。
 「このへし切長谷部、必ずや主のご期待に応えます!」

 「へぇ・・・。
 まぁ、お前が単騎で行くのはいいんだがよ」
 眉根を寄せて、日本号は手にした徳利から酒をあおった。
 「2012年に顕現するには、本体の他に、仮の主って奴が要るんだろ?」
 「そうだが、それがどうした?」
 「どうしたって、問題だらけだろうよ」
 訝しげに問うた長谷部に、日本号が人差し指を立てる。
 「お前が行く2012年10月に、お前は展示されてねぇ」
 「う・・・まぁ、そうだな。
 俺は1月の展示物だった」
 この当時、長谷部がいる福岡市博物館では、刀剣の展示スケジュールがほぼ決まっていた。
 国宝であり、黒田家の重宝であるへし切長谷部は正月の展示である。
 「2月は日光一文字がいるけどよ、3月以降はたまに、城井兼光やら碇切やらが出て来る程度で・・・10月は確か、刀は誰もいなかったぜ?」
 長谷部と違って日本号は、常に同じ企画展示室にいた。
 呑み取りの槍として有名な彼は、民謡や博多人形のモチーフとなっていることもあり、福岡市民であれば誰もが知る、福岡市博物館の名物の一つだ。
 ただ、ここには彼らよりはるかに有名な展示物、それも常に展示してあるものがある。
 「このまま行っても、お前は仮の主に会うことができねぇかもしれねぇ。
 だったらここは、金印先輩に頼んだ方がよくないか?」
 「金印先輩か・・・・・・」
 金印とは教科書にも載っている、漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)の文字が刻まれた、金の印章である。
 福岡市博物館は、この国宝から始まったと言っても過言ではない。
 「あそこに行く以上、先輩に挨拶なしはまずいだろ。
 それに先輩なら、お前が仮の主って奴に会うまで、姿を保てるだけの力をくれるかもしれねぇ」
 物は、古ければ古いほど、紡がれた時の力を持つ。
 その点において、金印は申し分ない存在だった。
 ただ・・・・・・。
 「先輩主催の新年会を断った手前、気まずい」
 「あぁ・・・そうだっけな」
 うつむいた長谷部に、日本号は頷いた。
 「主優先で断ったのはまぁ、いいんだけどよ・・・。
 お前、安宅切を代理に寄越しただろう。
 ぱっと見お前なのに話せば安宅切だから、先輩達に詰め寄られてあいつ、涙目だったんだぜ。
 その上、日光一文字は2月から展示だから忙しいって、さっさと帰っちまうし。
 金印先輩、蛇の鈕(ちゅう)から威嚇音出してたぞ」
 「う・・・・・・」
 青ざめた長谷部が、頭を抱える。
 「だって面倒だろう!
 先輩は酔うとお小言がうるさいんだ!」
 心底嫌そうな顔をする長谷部に、日本号も珍しく真顔で頷いた。
 「お前が言うくらいだから、大概だよなぁ」
 「どういう意味だ」
 「そのままの意味だ」

 その後、本丸の刀剣達に盛大に見送られ、到着した福岡市博物館で、長谷部は二階の常設展示室へ向かった。
 賑やかな特別展示室に背を向け、日本号がいる企画展示室を通り過ぎ、照明を落とした常設展示室へ入る。
 金印のためだけに設けられたスペースは黒い壁で囲まれ、中央にある金印にのみ、照明が当てられていた。
 「お・・・お久しぶりです、先輩」
 新年会を断ったのは2205年のことだから、2012年現在の金印が、彼に怒っていることはないだろう。
 200年後と変わらず、まばゆい光を放つ彼に、長谷部は最敬礼する。
 「へし切長谷部です」
 彼の声に応じるように、黄金色の光がケース内に散る。
 「すみません、突然・・・。
 実は今、俺の本体が仕舞われていまして、この時代に顕現することが難しい状況です。
 なんとかお力をお借りできませんか」
 金印に向かって更に深々とこうべを垂れると、背後で息を飲む気配がした。
 「うっわ、びっくりしたぁ!
 おにーさん、なんで金印に向かってお辞儀してんのぉ?!」
 軽薄な声に振り返った長谷部は、派手な化粧をした小娘を舌打ちしそうな顔で見下ろす。
 「最初に会った人間が仮の主になる、だったな・・・。
 本当に俺は、くじ運が悪い・・・」
 「あ!
 なんか今、シツレイなこと言ったでしょー!」
 異常に長く、飾り立てた爪で指された長谷部は、不快げに彼女の手を取った。
 「時間がない。
 俺を江戸・・・いや、今は東京というのだったな。
 共に連れて行け」
 「それ、人にものを頼む態度じゃないよね?!」
 思わず声を荒らげた彼女は、展示室入り口からこちらの様子を窺う職員に、慌てて詫びる。
 「どういうこと?」
 ひとまずこの部屋を出ようと促され、共に常設展示室を出た途端、受付にいた職員が顔色を変えて受話器を取った。
 「やだ!
 おにーさんが刀っぽいもの持ってるから、警備員呼ばれちゃうんじゃない?!
 ちょっと外でよ!」
 掴んでいた手を逆に引かれて、長谷部は彼女と共に階段を降りる。
 「それで、なんで東京?」
 一階ホール内を早足に玄関へ向かいつつ問えば、長谷部は彼女の手をぞんざいに振りほどき、スラックスのポケットから出した金の鎖を彼女の左手首に巻く。
 「ブレスレット?きれいだけど・・・」
 「我が主からだ。
 仮の主への書簡ともいうべきものだ」
 金の鎖についたメダルからきらりと散った光を目にした途端、彼女の脳裏にこの男―――― へし切長谷部の名と、彼がここに至った事情、東京に行かなければならない理由が閃いた。
 「・・・わかったよ、へっしー」
 「は?!俺は・・・!」
 「そうとなったら準備準備!
 一旦うちに帰って、荷物まとめなきゃ!
 東京楽しみだね、へっしー!」
 「長谷部と呼べ!」
 再び手を取られた長谷部は、引きずられるようにして連行されていった。

 「あたしの名前はー!み・つ・る!
 実るに弓の弦って書いて、実弦ね!
 あなたはへし切長谷部って言うんだよね、だからへっしー!
 可愛いでしょ!」
 「長谷部と呼べ」
 不機嫌な口調で言って、長谷部は彼女・・・実弦と共に、地下鉄に乗った。
 一旦彼女の自宅に寄らなければならないのは面倒だが、準備がなければ移動もできないと言われては仕方がない。
 「市博には、能の衣装を見に行ったんだぁ。
 あたし、ファッション好きじゃない?
 能の衣装って、今じゃ伝統衣装だけど、当時の最先端だったわけでぇ。
 やっぱ尖ってるって言うか、そういうのがカッコ良かったりするんだよねぇ!
 あと、能面も色々あって面白かったよ」
 「あぁ・・・それであんなに騒がしかったのか」
 呟くように言うと、実弦は不思議そうに首を傾げた。
 「今日は平日だし、閉館前だったから、お客さんはほとんどいなかったよ?」
 「俺が聞いたのは人の声じゃない。
 能面達の声だ。
 奴らはよくしゃべるからな」
 途端、実弦がやや身を離した。
 「へっしー・・・スピリチュアルのひと?」
 「お前は俺の本性を聞いたのじゃなかったのか?」
 眉根を寄せると、実弦は『そうだった!』と手を叩く。
 「へっしーの主さん、いい人でしょ。
 へっしーは真面目で愛想は良くないけど、大事な刀だからよろしくね、って言ってたよ」
 「なっ・・・!」
 思わず頬を染めた長谷部ににこりと笑い、実弦は彼の腕を取った。
 「よし!
 じゃあ急いで準備して、レッツゴー東京!」
 天神駅で降りた二人は帰宅時間で混雑する地下街を、人波をかき分けながら七隈線へと向かい、実弦の自宅で諸々の準備を整えてからまた天神へと戻った。
 「大丸閉店前だったから、もう残ってないかと思ったけど!
 東筑軒のかしわめし弁当買えてラッキーだったね、へっしー♪」
 「長谷部と呼べ」
 弁当を持たされた長谷部は、天神駅の改札口に入りかけた実弦が、くるりと踵を返したことに慌てる。
 もしかして怒らせてしまったのかと、任務への支障を懸念していると、
 「ガイドブック買うの忘れてた!
 電車来るまでまだ5分あるから、何冊か買っとこ!」
 「・・・なんだそれは」
 改札口近くの書店で、店頭に並ぶ色鮮やかな冊子を何冊か取った実弦に、長谷部は呆れた。
 自身の本丸にも三日月や髭切など、マイペースすぎる刀がいるが、こんなにも振り回されるのは初めてだ。
 店の外で荷物番をする長谷部の元に、実弦は楽しくてたまらないといった様子で戻って来た。
 「よーし!
 博多駅に行くよ!
 バスが出るのは30分後だから、今から行けば余裕余裕♪」
 審神者から託された、金の鎖を巻いた腕を振りつつ、実弦は弾む足取りで改札を抜けた。

 博多駅は東側が新幹線の乗り口に近く、西側がバスターミナルに近い。
 車両さえ乗り間違えなければ、降りてすぐが出口だった。
 「確かに余裕だな・・・」
 こんなにも交通の便がいいのかと、感心しつつ実弦のあとに着いて行くが、なぜか彼女はまた、店に寄った。
 「今度は何だ!!」
 「お土産だよ、お土産!
 まさかへっしー、初めて会う人に手ぶらでご挨拶するの?
 主さんに呆れられちゃうよ」
 「そんなことをしている暇は・・・!」
 「ここで焦ったって、東京に着く時間は同じだよ」
 買うものは決まっているし、と、実弦は黄色い包装紙にくるまれた、大き目の箱を購入する。
 「キャリーバッグに入れたら、今度こそバスだから」
 言われて、長谷部は大きなため息をついた。
 「それで、バスとやらで向かって、東京に着くのはいつだ?」
 「んー・・・14時間後くらい?」
 「走った方が速いわ!!」
 思わず声を荒らげると、実弦は目を丸くする。
 「マジで?!
 どんな足してんの、すごいね、へっしー!」
 「俺一人なら可能だが、お前を連れて行くのは無理だ・・・。
 ほかに交通手段はないのか?」
 これだけ交通網が発達しているのだ、不可能ではないだろうと言う彼に、実弦は気まずげな顔をした。
 「あるにはあるんだけどぉ・・・」
 「ならばそれで・・・!」
 詰め寄る長谷部に、実弦は首を振る。
 「先立つものがないんだよぉ・・・・・・」
 「そうか・・・・・・・・・」
 「ごめぇん・・・」
 「いや・・・俺も悪かった・・・・・・」
 金子に関して吝嗇であった黒田家に仕えていた彼は、戦費の重要性というものを身に染みて知っていた。
 だが戦国時代の武家ならばともかく、この平和な時代の一般人に、もしもの時の備えを期待するのは酷と言うものだろう。
 「・・・この時代では、俺は仮の主の元を離れることができない。
 ・・・・・・・・・よろしく頼む」
 目を逸らしつつも、言った長谷部に実弦はにこりと笑う。
 「おっけー!
 本当の主さんからもお願いされちゃったし、任せてよ!
 長距離移動、頑張ろうね、へっしー!」
 「長谷部と呼べ!」

 高速バスの消灯時間を過ぎ、途中で休憩など挟みながら、朝を迎えたのは静岡の付近だった。
 カーテンの隙間から差し込む朝日に目を覚ました実弦は、ここが関東だと実感する。
 「こっちは1時間くらい、日の出が早いんだよねぇ・・・。
 福岡じゃまだ暗いのにさぁ」
 うんっと伸びをして隣を見ると、乗車した時からほとんど姿勢を崩さず、長谷部が深刻な顔で座っていた。
 「へっしー、ちゃんと寝た?」
 「そんな状況ではない!」
 「ちょっとぉ・・・。
 主さんの大事なお刀さんが、そんなことじゃダメでしょぉ」
 ずっと不機嫌な長谷部に、実弦は頬を膨らませる。
 途端、
 「主・・・・・・」
 不安げな顔になった長谷部に、困惑した。
 「こんなことをしている間にも、主は・・・・・・」
 二人がバスで移動している間に状況は悪化し、歴史改変は2205年の本丸にまで影響を及ぼしたらしい。
 実弦が審神者から託された金の鎖も、もはや何の反応もしない、ただのアクセサリーだ。
 「主さん・・・・・・」
 会ったことはないが、この長谷部にこれだけ慕われるのだから、良い人なのだと思う。
 何とか元気づけてやりたいが、まだ寝ている乗客もいるバス車内で、はしゃぐわけにもいかないし・・・と考えた末、
 「おべんと食べよ。
 お腹空いてると、イライラしちゃうもんね!」
 という結論に至った。
 「ほら、へっしーも食べなよ!」
 本来は北九州名物であるため、福岡市内では中々に入手困難なかしわめし弁当を開けると、テンションが上がった。
 「うん!
 お弁当、美味しいよ!」
 「いらん!」
 差し出した弁当を邪険に振り払われるが、実弦は負けずに押し付けた。
 「常に己の進路を求めてやまざるは水なり、だよ?」
 「え・・・?」
 よく知っている一節に目を丸くする長谷部へ、実弦はにこりと笑う。
 「へっしー、これの五番目は?」
 「・・・洋々として大洋を充たし、発しては蒸気となり、雲となり、雨となり、雪と変じ霰と化し、凝しては玲瓏たる鏡となりたえるも、その性を失はざるは水なり」
 「はい、よくできましたー!」
 頭を撫でてやろうとすると、やはり邪険に振り払われた。
 「臨機応変に柔軟に、目的を忘れないように、ってことでしょ。
 へっしーは今、それができてるかな?」
 「・・・っ」
 気まずげに顔を背けた長谷部は、
 「なぜお前がご隠居様・・・いや、黒田官兵衛の水五訓なんて知ってるんだ」
 と、憎まれ口をたたく。
 「あ、またシツレイなこと言ってるー!
 あたしのこと、馬鹿だと思ってるんでしょ!」
 ぷぅ、と頬を膨らませて、実弦は宙を見遣った。
 「あー・・・多分、如水庵の包装紙にでも書いてたんじゃない・・・かな?」
 「如水・・・庵?」
 なんだ、と問われて、『和菓子屋さん!』と答える。
 「福岡じゃさ、如水庵のおかげで、黒田官兵衛は知らなくても黒田如水は知ってるって人、結構いるよ?」
 「同一人物だろうが!」
 「そうなんだけどねー、なにしろ黒田は博多に嫌われ・・・あ、ううん!
 地域学習とかで黒田の事はやんないんだって、博多の友達が言ってたよ」
 と、実弦は慌ててごまかした。
 自身の姓で嫌がらせをされたことなどはないが、高齢者に黒田と名乗ると一瞬、間が開くのも確かだ。
 福岡ではそこまで珍しい姓でもないため、『本家じゃないですよ』の一言で解決はするものの、福岡と博多の溝は、ないこともない。
 「こないだなんか、ゼミで福岡の子が、『オレ博多っ子』なんて言っちゃって、マジで研究室ピリついたからー。
 ゼミの中じゃなかったら、博多の子達がガチで怒鳴ってたよ。
 あれはホント、禁句だよねー」
 「そうだな・・・。
 うちの博多藤四郎も、黒田の刀でありながら時々・・・」
 彼を本気で怒らせた時、手合せで重傷寸前にまで追い込まれたことを思い出し、長谷部は首を振った。
 「・・・あいつは修行の際に、博多商人に教えを乞うような奴だから」
 「博多の子だぁ」
 にこりと笑って、実弦は弁当の端で長谷部の腕をつつく。
 「ほら、お弁当食べなよ」
 「いらん!」
 再度断られた時、上空に雷鳴が鳴り響き、落雷でもしたのか、前方の車が次々に追突する。
 バスは寸前で止まったものの、前方に黒く揺らぐ異形の影が現れた。
 「な・・・なになになに!!
 変なのがいる!!」
 「まさか、時間遡行軍だと!!」
 真っ先にバスを飛び出した長谷部が敵へ斬りかかる様を、同じくバスを降りた実弦は唖然と見守る。
 審神者から彼の素性を知らされてはいたものの、こんな異形と戦う姿を間近に見ては、平穏に暮らしてきた彼女は思考停止するしかなかった。
 「こっちです!
 早く!!」
 背後で、バスの運転手が乗客を逃がす声が聞こえる。
 はっとして周囲を見ると、先に玉突き事故を起こした車両が、赤く炎を上げていた。
 逃げなきゃ、と後退する足を、実弦は無理矢理止めて、ポケットからスマートフォンを取り出す。
 ―――― 仮の主が長谷部から離れれば、彼はこの時代で満足に戦えない。
 だから彼のことをお願いします、と、声ではない意識が、脳内に蘇った。
 「あたしはなにもできないけど・・・!」
 写真はもしかしたら、何かの役に立つかもしれない。
 怪獣映画でもエヴァンゲリオンでも、こういう時には政府のなんとかいう機関が動いているんだから、きっと情報は有益なはずだ。
 夢中で写真を撮る未弦に、槍を構えた異形が迫っていることに気づかなかった。
 「きゃあ!!」
 目の前に迫った穂先に身を縮める実弦の髪を、疾風が薙ぐ。
 「邪魔だ!下がっていろ!!」
 駆け付けた長谷部が、敵の槍をはじいて実弦に怒鳴る。
 「ごめぇん・・・」
 恐怖のあまり、それしか言えず、顔を上げた実弦は瞬いた。
 「あ、いない・・・・・・」
 一瞬で、敵は跡形もなく消えていた。
 「どういうことだ・・・。
 どうして時間遡行軍は、こんなに自由に動ける?」
 長谷部の疑問には首を振る。
 「とりあえず、さっきの写真がちゃんと撮れたか見てみよ・・・うわっ!なにこの通知!!」
 博物館にいた時から機内モードのままだったスマートフォンは、通信が回復した途端、何十件もの着信通知を表示した。
 かけ直すべきか、迷う間もなく同じ番号から着信がある。
 「も・・・もしもし・・・?」
 知らない番号だが、ここまで執拗にかけてきたのだ、きっと大事な用なのだろう。
 『黒田実弦さんですか?!今、無事ですか?!』
 酷く焦った様子の声に、実弦は『はい・・・』と、未だ炎をあげる車両を見遣った。
 『あなたのGPSで、位置情報を確認しました!
 お迎えに上がりますので、へし切長谷部と一緒に安全な場所にいてください!』
 「え?!
 えっと・・・へっしーを知ってる人・・・ですか?」
 『私は内閣官房国家安全保障局の者です!』
 映画でしか聞いたことのない機関の名前を電話越しに聞いて、実弦は目を丸くする。
 「ホントに来たよ、エヴァンゲリオン・・・」
 「なんだって?」
 わけのわからない言葉を言う実弦に、長谷部は訝しげに眉をひそめた。

 事故処理に駆け付けたパトカーのうちの一台が、長谷部と実弦を乗せて走り出すまで、数分とかからなかった。
 高らかにサイレンを鳴らし、ものすごいスピードで高速道路を走り抜けていく。
 「騒々しいが・・・さっきよりはずいぶんと早いな」
 呟く長谷部の隣で、未弦は大きく頷く。
 「日本で三番目に速く走っていい車だよ」
 「なぜ一番じゃない!」
 眉根を寄せる彼に、未弦は首を振った。
 「一番は救急車、二番は消防車。
 人命救助と災害対応が優先されるから、警察車両は三番目。
 わかる?」
 渋々頷いた長谷部に、未弦は満足げに笑う。
 「パトカーなんて、初めてだよ!
 なんかVIPになったカンジ!」
 と、ここで既にご満悦の彼女だったが、高速道路を降りた途端、待ち構えていた高級車に押し込まれたのにはさすがに驚いた。
 猛然と走り出したそれに、革張りのシートの感触を堪能することもできず、前のめりになる。
 「ここ一般道でしょ?!捕まらないんですか?!」
 「交通規制までしているのに、捕まるわけがないでしょう」
 助手席から、冷ややかな声が後部座席の実弦へ投げられた。
 山姥切長義の仮の主となった各務が本部から離れられないため、使い走りをさせられていることに強烈な不満を持つ彼は、バックミラー越しに苛立たしげな長谷部の顔を見やる。
 「あなた達には、飛行機を用意していたんですがね。
 まさか、こんなにのんびりいらっしゃるとは思いもしませんでしたよ」
 皮肉を言ってやると、実弦が口をとがらせる。
 「えぇー・・・。
 先に言ってよぉ・・・」
 「っ!!
 通信を切っていたのは・・・!!」
 「あ、そうだった。
 ごめんなさーい!」
 激昂しそうになるのを何とか抑え、彼は震えるスマートフォンを胸ポケットから出した。
 「なんだ各務、まだ俺に使い走りを・・・チッ!」
 隠しもせずに舌打ちをした彼は、忌々しげに通話を切った。
 苛立たしげにカーナビを操作して、行き先を変更する。
 「へし切長谷部殿、進路変更だ。
 この事件の原因と思われる少年と、山姥切国広の確保にご協力願いたい」
 「承知した」
 短く言った長谷部に一瞬、感心したような顔をした彼は、すぐに表情を消して前を見据えた。

 「はじめまして、うちの長谷部がおせわになります!
 こちら、博多土産です。
 皆さんで召し上がってください!」
 「なにやってるんだ!!」
 執務室に入った途端、山姥切長義へ突進し、菓子折りを差し出した実弦を、長谷部が慌てて引き離した。
 「だって、ここで一番偉そうにしてる人じゃん!
 ご挨拶大事だよ!」
 それに、と、改めて差し出した菓子折りを受け取った長義が、ぴよっと反応したのを見てにこりと笑う。
 「お口に合うとうれしいですー!」
 ぺこりと一礼した後、長谷部の腕を取って、こそこそと囁く。
 「絶対気に入ったって、あれ!
 なんかうれしそーだもん!」
 「そんなわけが・・・」
 言いつつ、肩越しにちらりと見遣った長義がそわそわと仮の主へ菓子箱を渡す様に、長谷部は絶句した。
 「ね?
 お土産、大事でしょ!」
 実弦の得意顔に鼻を鳴らした長谷部は表情をあらためて、つい先ほど合流したばかりの他本丸の男士達へ向き直った。
 「あ!あたし、官僚さん達にもご挨拶してくるね!」
 もう一つの菓子折りを持って部屋を出た実弦は、それほど間をおかずして戻って来る。
 「喜んでもらえてよかったよかった!
 やっぱり、疲れた時は甘いものだよねー!」
 「いい主人と出会えたな」
 「どこがだ!」
 愉快げに笑う三日月に毒づいた長谷部が睨む先で、実弦は楽しそうに執務室を見回す。
 「ねぇねぇねぇねぇ!
 こんなところ、初めて来たんですけどぉー!
 なんかテンション上がんない?!」
 「静かにしろ!」
 と言う、長谷部の言葉など無視して、実弦は仮の主たちに声をかけていった。
 それどころか、歴史を守るものとして当然のことを言っただけで、『へっしー!そういうところ!』などと、茶々を入れてくる。
 長谷部の苛立ちが最高潮になった時、地下でありながら雷鳴が響き、敵が押し寄せてきた。

 ―――― やだやだやだやだ!!なんでなんで!!
 各務の先導で暗い地下道を走りながら、実弦は斬りつけられた腕を押さえた。
 逃げる途中、倉橋が止血帯で縛り上げてくれたが、指先が滲む血に濡れる感触がする。
 迫る敵と男士達が斬り結ぶ音が大きく反響し、恐怖はいや増した。
 実弦には、土地勘がない。
 自分が今、どこにいるのか、どこへ向かっているのかもわからない。
 彼らとはぐれてしまったら最後だ。
 ―――― もっと走りやすい靴にすればよかった!
 などと、今考えてもしょうがない。
 必死について行くと、ようやく上階へ続く階段が現れ、地上へと出る。
 ほっとしたのも束の間、ニュースなどでよく見る渋谷の街は動きを止め、意識を失った人々がただ、林立していた。
 「なにこれ・・・」
 東京についてからは、ずっと地下の執務室にいた実弦は、初めて見る異様な光景に息を飲む。
 長義があれだけ苛立っていた理由はこれだったのかと、ようやく理解した。
 地元は大丈夫だろうか・・・いや、大丈夫なわけがない・・・。
 血の気が引いた顔で見遣った長谷部は、彼女よりも更に色を失っていた。
 「ちょっとへっしー・・・!
 なんか地味になってる・・・!」
 我ながらもっと他に言い様はなかったのかと思うが、こんな状況でふさわしい言葉なんて出てこない。
 なにか、なにか解決策はないのか・・・。
 進退窮まる中、琴音が決断してくれた。
 「よし、頼めるか?」
 「当然だ」
 「任せてよ」
 三日月の問いに、膝丸と髭切が頷く。
 「退路を開くぞ!」
 長谷部の声に、戦い慣れた刀剣達は協力して退路を開き、三日月と琴音を渋谷の戦場から逃がした。

 「うーん・・・。
 消耗戦、ってやつかな?」
 のんきに笑いながらも、髭切の目は笑っていない。
 三日月達が去って、もう随分経つ。
 さすがの付喪神達にも、限界が見え始めていた。
 「いざとなれば兄者だけでも・・・」
 「ふふ。
 それ以上言ったら、お前から折るよ?」
 凄絶な笑みを向けられて、膝丸は口をつぐむ。
 「だが、多勢に無勢もいいところだ!
 これ以上は持ちこたえ・・・」
 長谷部の言葉を遮るように、目の前を花弁が舞う。
 「へっしー!体が!
 体が戻ってるよ!」
 希薄だった体が実体を取り戻し、同時に力も戻ってくる。
 更には三日月達の本丸のものか、桜吹雪とともに現れた小烏丸が、優雅な足取りで歩み寄って来た。
 「安心しろ。
 本丸も審神者も無事だ」
 その言葉に、思わず深い吐息が漏れた。
 「あとは任せなぁ!!」
 突然の大音声を見遣れば、長い髪をなびかせて、和泉守兼定が颯爽と現れ、
 「そら!いくさの始まりじゃ!!」
 陸奥守吉行が銃声を轟かせた。
 「へっしー!」
 振り返れば、実弦が金の鎖を巻いた腕を振り上げていた。
 「やっちゃえー!」
 「主・・・!」
 審神者に託されたそれが光を弾き、長谷部は柄を握る手に更なる力を込めた。

 ―――― 年が明けて、1月。
 冬休みもそろそろ終わりが近づく頃。
 未弦はなぜか心惹かれて、福岡市博物館へと足を運んだ。
 常設展示室がリニューアル工事中の今、金印は、ホールから見て正面にある企画展示室に据え置かれている。
 工事が終わるまでの、仮住まいだ。
 特別展示室も、今は新収蔵品のお披露目時期であるため、博物館内に人は多くない。
 静かな室内に足音が響かないよう、気を使いながら進むと、金印が置かれたすぐ隣の部屋に、黒田家ゆかりの品々が展示されている。
 博多駅が改築される前は、横断歩道の真ん中にあった黒田武士像が持つ槍。
 その本物が、いつもここにある。
 使い込まれた螺鈿細工の長柄に、見事な龍の彫り物が施された長い穂先。
 思わず目を奪われる、堂々たる有様に皆が足を止める中、実弦はその隣、一振りの刀の前で足を止めた。
 「へし切・・・長谷部・・・・・・?」
 広い身幅の上に散る、華やかな刃文。
 説明書きにある大磨り上げが何の事かはわからないが、国宝にふさわしい美しさだ。
 じっと見つめていると、ライトの具合か、刀身が光を弾いたように見えた。
 「へし切・・・じゃあ、へっしーだ」
 呟くとなぜか、懐かしい気持ちになった。
 「へっしー」
 『長谷部と呼べ』
 聞き覚えのある、苦々しい声が聞こえた気がして、実弦はくすくすと笑い出した。

-了-
 
 
 
 
 
 
【あとがき】
題名は古今和歌集の『片糸を こなたかなたによりかけて あはずはなにを玉の緒にせむ』より。
互いに糸をかけて、縒り合わせないと魂は繋げないでしょ?
ということで、実弦と長谷部の、ばらばらに見えてちゃんと縒り合されていればいいな、という関係を書いてみました。
生まれた時から福岡市在住、生粋の博多っ子として、福岡女子の話は私が書かねば!と!>謎の使命感。

なお、ゼミでのピリついた話は実話です。
後で、『山笠が通らないくせに博多名乗るな!』って詰めましたね。>お前かよ。
ゼミだから怒鳴らなかった。
居酒屋だったら危なかった。

審神者からの書簡は、実弦がつけているアクセサリーの中で、ネックレスだと目立つ、指輪も『長谷部が贈る』ことが嫌な人もいるかも、と言うことで、袖に隠れて見えたり見えなかったりする左手首のブレスレットにしました。
これなら、別れのシーンでついているかいないか見えないし。
ラストはどうしてもやりたかった、本刃との出会い!
日本号が隣で、にやにやしてるといいですね!
そして、『ぱっと見同じ』安宅切は、長谷部の現在の拵の本歌になります。
安宅切の拵を模して、長谷部の金霰鮫青漆打刀拵(きんあられ・さめ・あおうるし・うちがたな・こしらえ)は作られています。

白山吉光にはわからない/紗々

「あるじさま」
白山が呼びかけると、砂場にしゃがみ込んでいた幼女がくるりと振り向いた。くりくりとした丸い瞳に、白山の姿が映る。
「5時まであと10分46秒です。鐘が鳴る前に帰宅しましょう」
「はーい!」
行儀の良い返事をした子供がスコップや型抜きの型をピンクのバケツにガチャガチャと放り込む。
立ち上がり駆け寄って来た子供の砂まみれの服をはたこうと白山が屈むと、それまで肩に乗っていた狐がふわりと子供の頭に飛び乗った。
白山の手の動きに合わせて、薄桃色のスカートからパサパサと砂が落ち、斜めがけされた猫のポシェットが振動に合わせて忙しなく跳ねる。
「帰りましたらしっかり手を洗いましょう」
「うん!はっくんもつーちゃんもいっしょにおててあらおうね!」
屈託なく笑う少女が、迷いなく白山の手をぎゅっと握った。白山も躊躇いながら少女の手をそっと握り返した。
「つーちゃん、きょうのごはんはなんだろうねぇ」と自分の頭の上に鎮座する白狐に話しかける、年端もいかぬ少女。
この少女こそが、単独でこの時代にやってきた白山の「仮の主」であった。
2012年、東京。
時間遡行軍も手を出しにくい近現代であるはずのこの時代に、時の政府は大規模な敵の介入を察知したという。
当然政府も対抗を試みたが、その為にこちらが大軍を送り込んだせいで歴史が変わってしまえば元も子もない。また、時が近しい過去のせいか、そもそも男士を送る事自体がひどく難度の高いものとなっていた。
苦渋の策として、政府は複数の有力な本丸より男士を一振に限り派遣させ、また男士の顕現を安定維持させる為に、その時代の人間を「仮の主」として共に行動する事とした。
その依頼を受けたとある本丸の審神者が選んだ一振が、この白山吉光だ。
白山吉光にはわからない。
なぜ主は白山を選んだのか。
なぜ仮の主にこのような幼い子供が選ばれたのか。
(わたくしは、決して戦闘が得意ではありません。人の世の理にも、あまり明るくはありません)
白山は己をそう理解しているし、恐らく周りのものもそう思っているだろう。数多の戦力から一振のみを出すのであれば、もっと武功に優れたものを選ぶべきだし、近現代という特殊や時代に送られるのであれば、もっと人の世に馴染みやすい性質のものを選ぶべきだとも思う。
(与えられた命令は、勿論、実行します。が、しかし…)
白山の仮の主となった人間は、白山以上に荒事から遠く離れた存在。ようやく善悪の分別がつき始めるような、何も知らない子どもだった。
「ねぇはっくん」
「なんでしょうか」
「なんではっくんはわたしを「あるじさま」ってゆうの?」
「それは、今この時において、あるじさまがわたくしの主だからです」
「わたし、あるじってなまえじゃないよー!ねぇ、つーちゃん?」
何故だか少女に懐いているように見える白狐は、少女の声に僅かに首を傾げる。
夕暮れの帰路を歩きながら、白山は改めて己が遣わされた戦場の難しさと、こんなにも平和な時代に目をつけた敵の狙いに思考を沈ませた。

フランス、パリ、サントノーレ通りより/イシュ

 ーーフランス、パリ、サントノーレ通り

 行きつけのカフェでクロワッサンとカフェオレの朝食を取って。

 いつも通りの休日の朝を過ごす「彼女」は、カフェの重い扉を開けて外に出ると、すぐそこに青年がひとり立っているのを認めて立ち止まった。

 緑色のジャケット、ピンクのニット、腰には刀。異様ないでたちをした青年は、こちらが心配になるような顔色で、悲壮感を漂わせながら口を開いた。

……村雲江。俺と一緒に、東京に行って」

 思わずサングラスをずらして見た青年の色彩は、故郷の桜を思わせた。

  ***

「なんて、二束三文の俺がいきなり来て言っても従う訳ないよね……

 村雲江は、胃の辺りを抑えて自虐的に笑う。パリ、巴里、ぱり。どこだそれ。何で自分はこんな所に来てしまったんだ。

 古い石畳と高級ブティック、街を行き交う人々の服装は洗練されている。俺より遥かに高そうなものばかり、とどんどん頭から血の気が引いていった。

 ーーこの時代に、歴史修正主義者の大きな侵攻があった。

 戦況によっては、本丸の審神者ーー主の存在も揺らいでしまう、そんな危険な状況なのだという。

 そこへ補充戦力として、本丸を代表してこの時代に送られた自分。

 存在の揺らぎを防ぐため、「仮の主」と同行することがここで戦う条件だった。

 二束三文の自分の仮の主、どんな人かと思えば。

 質の良さそうな仕立てのジャケットに高いヒール、シンプルなシャツの胸元に光る宝石、大きなサングラス。

 目の前に立つのは、積み重ねた年齢すらもアクセサリーとするような、しゃんとした婦人だった。

 その姿はこの街によく馴染んでいた。

「ねえ、きみ」

「きみ、はしっくり来ないわね。そうねえ、マダムと呼んでくれたらいいわ」

「ま、まだむ」

『Oui.』

 婦人ーーマダムは、サングラスを外してシャツの胸元に引っ掛けてから、村雲を上から下まで見分するように見る。

「うう、」

 刺さる視線と居心地の悪さに呻くと、「あら、ごめんなさいね」と彼女は笑った。そうすると、とっつきづらそうな雰囲気が和らぐのが印象的だった。

「ちょっと待ってなさい」

 彼女は村雲にそう言うと、携帯電話を取り出してどこかに電話をかけ始めた。

Allô!』

 数分会話を交わしてから、電話を切る。

 そしてもう一度村雲を上から下まで見て、ひとつ頷いた。

「悪くないわね。ついてきなさい」

「ええ?!」

 サングラスをかけ直し、肩にかけたジャケットを翻して歩き出すマダムを、村雲は訳が分からないまま追いかけた。

みたいもの

とある田舎町。
少女は今日も塾で宿題と少しの自習を終えてきた。
彼女は、成績があまりよくなく、宿題も慌ててやる始末。
見かねた両親により、高校の授業を終えたあとに、知り合いが運営している学習塾へ通うことになったのだ。
幸いにも自習型の学習塾であったため、塾の教材のみでなく学校の宿題も見てくれる。
彼女は宿題をここに持ち込むことが多かった。

夏の盛りも過ぎ、昼と夜の寒暖差が少しずつ大きくなってきている頃
彼女が体験した、誰も覚えていないお話。

彼女の通う塾は、田舎の中でも人通りが多い道にあった。
家の周りに比べると、賑やかさも明るさも段違いのその道は、高校生の少女が自転車で走っていても暗さに怯えることはない。
しかし、その日は通い慣れているはずの道が、いつもより寂しく、暗く感じられた。

「やっぱり夜は寒いなぁ……なんか暗いし、早く帰ろう。」
そう呟いた少女は、愛用の自転車にまたがり、なるべく明るい道を選んで颯爽と自転車を走らせる。
いつもと微妙に異なる空気。いつもより暗く寂しい道路。
早く帰らないと嫌なことが起こるかもしれない。そんな不安を抱えながら、必死に、必死に自転車をこぎ進めていた。

そして、最後の交差点に差し掛かる頃。
目の前に雷が落ちたような衝撃が走った。

あまりのことに少女は自転車を止め、目の前を凝視した。
あまり視力がよくないので、いつもコンタクトレンズを使っている彼女。しかしその日は、朝寝坊をしてしまい眼鏡で過ごしていた。
先ほどの衝撃で眼鏡がずれてしまったのか、気がついたときには目の前に黒いもやをまとった何者かが大挙していた。

「……ひぃっ!」
彼女が気がついたときには、黒いもやをまとった者が目の前にいて、刃物を自分に向けた。
ずれた眼鏡を直すことも忘れ、眼鏡が地面に落ちる。
自転車が倒れ、鞄が飛び出し、彼女は倒れ込んだまま動けない。
黒いものが刃を自分に振り下ろす。
殺される…彼女がそう思って目を閉じてしまった、その時。

季節外れの桜吹雪。
気がついたら、黒い影は霧散していた。
そして目の前には、まるで暗殺者のような身なりの男性。

「ひいっ!」
「おい、無事か。」
「え、はい…」
彼女の返答に満足したのか、彼は小さく息をはくと刀を納めた。
彼女は呆けたままその姿を見守る事しかできなかった。

「ほら、これお前のだろう。」
そう言って彼が差し出したのは落ちていた眼鏡だった。
ありがとう、そう小さく答えて彼女は眼鏡を受けとる。
「あれ…見える?」
彼女は驚きに満ちた顔で彼を見つめた。

「つまり、そのじかんそこーぐん、ってやつがさっきの黒いやつらで、そいつらは歴史を変えようとしていて、肥前君?はそれを阻止するためにここに来たってことなんだね。」
「ああそうだ。あとまどろっこしいから肥前でいい。」
そういった肥前は肉まんにかぶりついた。

少女は、話を聞くため道中にあるコンビニに立ち寄った。
店内で飲み物を買おうとしたら、肥前が物欲しそうな目で肉まんのケースを覗いていたのである。
見かねた少女は、自分の飲み物と肉まんを購入した。

少女は広い駐車場の隅で、自転車を背に肥前から詳しい話を聞いていた。
彼の名前は『肥前忠広』というらしい。
刀剣男士、という存在で、未来よりこの時代を守るために来たのだという。
そして、この時代は活動に制限がかかるということも教えてもらった。

「つまり、私が肥前と契約すれば、肥前は動きやすくなるってことだよね。」
そういった彼女は、助けてくれたお礼だ、といって、肥前の仮の主になることをすんなりと了承したのだった。

「おい、お前何でそんなにすんなりしてるんだよ。怪しいと思わねえのか」
「じゃあ、肥前は何で私を守ってくれたの?」
「それは…」
「一緒だよ。少なくとも肥前は悪いことするような人に見えなかったから。あ、人じゃなくて刀か!」
そう言ってケラケラと笑う彼女からは、邪気は全く感じられない。
分かりやすく戸惑った顔をした肥前を一瞥した彼女は言葉を続けた。

「私ね。裸眼だと見たくないものが見えちゃうの。不気味なのとかオバケとか。でも、眼鏡とかコンタクトとかすると見えなくてね。親の遺伝もあって、小さい頃から目が悪くて、物心ついた頃から眼鏡してたから、実はそんなに見たことないんだあ。
肥前は、眼鏡をしてもちゃんと見えてるから。だから、肥前はそういうやつじゃないと思った。それだけだよ。」

理由を聞いた肥前は、照れ臭そうにそうかよ、と小さく呟いて肉まんの最後の一口を口にいれた。
それを見た少女もまた、小さく笑って早く家に帰ろう!と声をかけた。
そして自転車を押そうとハンドルに手をかける。

「あ、お父さんとお母さんにどう言い訳しよう!」

 

結局、彼女の家族には国から説明が入っていた。
そして、彼女の体質は両親譲りだったことも判明した。
彼女の両親は、肥前に娘のことをくれぐれも頼む、と頭を下げたという。

(あいつは、いい家族のもと育ってきたんだろう。この町もあいつの存在を見守っているようだ。…消させるわけには、いかねえってか。)
安心した顔で眠る彼女をみて、そんなことを思った肥前。与えられた部屋へは戻らず、そのまま彼女の部屋を守るように扉を背に体を休めるのであった。