陽風のみち/舜由

 

「ごめん、彩。別れてほしい」

その言葉を聞いたとき、心のどこかでああやっぱり、と声がした。映画館デートのあとは喫茶店に寄るのがいつものコース。少しでも一緒にいたくて、初めてのデートでお願いしてから習慣になった約束事。またか?と言いながらも先輩は毎度付き合ってくれていた。今日は何も言わずにそうしようかとうなずいたから、何かあるとは思っていたのだ。

予感がなかったわけじゃない。

先輩はばかだ。女の勘は良く当たるという言葉を知らないんじゃないだろうか。

好きなひとのことだから、良く見てるに決まってる。話の内容とか、相槌の打ち方とか。わたしじゃない誰かの方を向いてることが増えてきたことに気づかないわけがない。自分の方を向いてるかどうかくらい、流石にわかる。

でも、わたしも先輩とおんなじくらいにばかだ。

わかっていて、見えないふりをしてた。

決定的な言葉を聞くまでは何とかなるんじゃないかって、ずっと。

指が冷たい感触を撫でる。

誕生日のときに先輩がくれた銀のバングル。

『彩に似合うと思って』とくれた贈り物だった。撫でるのは既に無意識の癖になっている。

どうしてと、縋ることもできた。泣きながら詰ることも。でもそんなことをしたって、先輩がわたしのことを振り向くことはない。これ以上みじめになりたくなかった。頭も自分の思いもぐちゃぐちゃで、胸が痛い。先輩の笑顔がすきだった。幸せになってもらいたいのに、応援する言葉が喉でつかえて出てこない。

「…はい」

結局何も選べなくて、その一言だけを喉から絞り出した。俯くしかできない自分が嫌になる。

ほっとした先輩の顔だけがその日の記憶の最後。

そのあとどんな話をして、どう帰ってきたのか、記憶にない。

つらくて、かなしくて、さびしくて、苦しかった。

 

「おはよう」

「おはよう」

クラスメイトの挨拶が耳を通り抜けていく。

ぼんやりと学校への道を足は辿る。心はどうあれ体は動いた。ごはんも入らないかと思ったら思ったよりも食べられるし、母親に送り出されれば学校にも行ける。共働きの両親は帰ってくるなり部屋にこもったわたしに何も聞かなかった。聞かれたら、話すことになる。思い返すことも辛かった。

何をしても楽しくない。ひとの声が煩わしい。

首に掛けていたヘッドフォンを着ける。

余計な音が減って、そこにはわたしだけの世界が広がった。プレイヤーの音を流せば、友人と選んだ気に入りの曲が流れてくる。

『こんなこと言うと、馬鹿だって思えるかもしれないけど…わたし、色んな声がひとより良く聞こえるの。それがうるさくて、耳を塞ぎたくなる』

一緒に入れる曲を選んでくれた琴音は、そう彩に打ち明けた。知り合ってから半年とちょっと。大人しくて、優しくて、芯の強い女の子。普通なら電波か頭の痛い子としか思われない話をする琴音の瞳は真剣で、きっと本当のことを話しているんだと思った。何度か何もないところで耳や頭を抑える姿を見ていたこともある。世界の見え方はひとによって多分違う。琴音の見ている世界は、彩に見える世界とちょっと違うのだろう。

だけど、それが何だというのだろう。

彩は琴音のことが友だちとして好きだった。その友達がこんな風に打ち明けてくれたことを大切にしたいと思った。

音なら、音で消せばいい。

その考えが浮かんだのは、塾の帰り、繁華街にある楽器店のショーウィンドウに飾られていたヘッドフォンを見たときだ。白一色の、何の変哲もないシンプルなモデル。明るい陽射しが似合う琴音にぴったりの色。まだ先輩とは付き合いたての時期で、手元にはたまたま、彼への誕生日プレゼントを買おうと思って貯めていたお金があった。

二つも買えば、それなりに値段は張る。

先輩へのプレゼントは少し遅れても何とかなる。予定のものよりは金額も質も落ちるけれど、何を贈るかも話していないし、わかってくれない人じゃない。

「これ、二つください」

気付けばわたしは白のヘッドフォンを二つ抱えて家に辿り着いていた。

少し緊張する。琴音は喜んでくれるだろうか。余計なことをと思われないだろうか。

次の日、二人になったときを見計らってプレゼントを渡した。

お金を、とわたわたと財布を取り出そうと焦る琴音の姿にほっとして、早めの誕生日プレゼントと嘯く。

それから琴音の首には白いヘッドフォンが当然のように掛けられるようになった。彼女が使ってみた感想を教えてくれたとき、確かこんなことを言っていた。

『ノイズにしか聞こえない音が消えるだけで、すごく楽。ありがとう、彩』

その気持ちがわかる気がした。

今のわたしには、意味はわかるけれど言葉がノイズのように聞こえる。

好きな音楽だけ聞こえる世界は少しだけ息がしやすい。

 

…琴音の見ている世界はこんな感じなんだろうか。

 

 

「…ーや、彩!」

「えっ…?」

菜摘の声が聞こえて、周りを見渡す。

教室だ。

(わたし…確か、登校してて…ヘッドフォン、つけてなかったっけ…?)

「琴音ー!! 彩がおかしくなっちゃったー!!」

なんだか、頭がぼうっとする。自分が薄くなっていくような。

 

わたし、は…。

 

強い眠気に襲われて彩は意識を手放した。

 

 

 

 

目が覚めて一番に見えたのは真っ白い天井。

どうして自分が寝ているのか分からなくて身を起こす。まだ頭がぼうっとする。着ているものも高校の制服ではなく、よく医療ドラマで見るような服に変わっていた。

「ここ…どこ…?」

顔を動かして見た建物の先に、名前らしきものが僅かに読み取れる。

(…東…央…?)

その名前がついている建物を、彩は一つしか知らない。地域の中でも大きめの病院だ。救急車がよく乗り入れているのを見かける。

(何でそんなところに、わたしが…?)

今まで、病気らしい病気なんてしたことがない。病院とは無縁の生活を送ってきた。それがなぜ。

わずかに開けられた窓から入ってきたそよ風が頬を撫でる。気持ちが良い風だった。吹き込んできた何枚かの淡い桜の花びらが渦を巻く。差し込んできた日光が一際強くなった。視界が真っ白に焼ける。眩しくて目を瞑った。光は次第に収まって、人のかたちに変わる。頭の先から爪先までほぼ真っ白で、着ている服も和装。肩に鞘に入った日本刀を担いでいるが、まるでそれが当たり前であるかのように馴染んでいた。コスプレと感じなかったのは、着物の人物がとても人のようには見えなかったからだ。かたちは人でも、血が通っている感じがしない。ひやりとした何かを感じる。そのひとは彩に微笑みかけた。人にしては美しすぎる。空間が光の粉を撒いているようだ。端正にすぎる珊瑚の唇が気さくに綻ぶ。

「俺みたいなのが来て、驚いたか?」

喋った。

動くことは分かっていても、喋りかけてくるとは思わなかった思考が止まる。茫然としたまま肯いた。起きたまま、わたしは夢でも見ているんだろうか。

「俺は鶴丸国永だ」

「つるまる、くになが…」

顔はアイドル事務所のようにきらきらしているのに、名前は妙に古くさかった。太郎とか次郎とか、そんな感じの。

「きみたちでいうところの、神様ってやつだ。元は太刀…刀が長い時間を過ごして、色々あってこうなってる。まあ未来から来た宇宙人みたいなもんだ。ちょっとばかりこの時代でお祭り騒ぎがあってな。少しの間邪魔したら帰るから安心してくれ」

「かみさま…ですか。色々って?」

「その言い方は信じてないな。この時代のひとの子らしい。あんまり話せないんで、そのあたりは聞かないでくれ。話したところで時期に忘れる。俺のことは…そうだな。つっさんと呼んでくれ」

「…え?」

聞き捨てならない言葉が聞こえた気がして、我に返る。

つっさん?

そんな、おっさんみたいな。こんなきらびやかなひとをそんな俗な呼び方で。正気だろうか。

「いや、流石にそれは…鶴丸さん、でいいですか」

鶴丸さんの眉がみるみる下がり、肩が落ちる。ついでにフードも被った。どうやら、落ち込んでいるらしい。

わたしはどうにも、変なかみさまに出会ったようだ。

 

かみさまは『祭りが終わるまで暇だから、このままお喋りに付き合ってくれ』と話した。参加しなくていいのかと問えば、ここにいることに意味がある、と返される。かみさまにも色々あるらしい。合コンの数合わせのようなものなのかもしれない。

いざ喋ってくれと言われても、鶴丸という名前と自称神様であることくらいしかわからない。自然と彩の方から質問を投げかける形になった。

「…どうして、ここに来たの?」

「馴染みがちょっとやらかしてな。このままだときみも危険になるってんで、きみの友人から護衛を頼まれた。名前は何て言ったか…こ…こ…、…声音…?」

「…琴音?」

「それだ!」

御名答! とポーズを決めてきた鶴丸に頭が痛くなる。かみさまって皆こんななのか。新年の初詣なんて、誰も名前を覚えてないのかもしれない。

「それで、琴音は」

「あー、それなんだがな。さて、どこからどう話したもんか…」

考え込む素振りを見せたかみさまの傍に友人とお揃いのヘッドフォンが置かれているのが目に入る。指を慣れた調子で手首に下ろし、引っかかる感触がいつもと違うことに気がついた。よく見れば柔らかいナイロンの輪っかしか手首には引っかかっていない。

ない。

慌てて体の周りや棚の中を探す。中にあった自分の荷物の中もひっくり返して確かめていくが、細い銀色は影も形もない。

どこかで落とした?

まさかそんな。毎日身に着けていたから、ヘッドフォンがあるならここにもあるはずなのに。運ばれるときに先生に没収された?

「探しものかい?」

「鶴丸さん、ここにバングルがなかった?」

「バングル? ああ、腕環か。それなら琴音が借りて行ったぜ」

「琴音が?」

「あっ…」

言っちまった、と両手で口を大仰に抑える鶴丸に彩は胡乱げな目線を向けた。このかみさま、嘘をつくのに徹底的に向いていない。

「まあそう怒るな。これには深ーい事情があって…」

「まさか琴音、先輩のところに行ってたりしないよね?!」

「先輩?」

「そう。わたし、付き合っていた人がいたの。振られたけど」

口にするとまだ塞がれていない心の傷が痛む。それを無理矢理抑え込んで白いかみさまの反応を伺った。琴音は優しい。私が贈ったヘッドフォンも私以上に大事にしてくれる子だ。あの子のヘッドフォンはいつも綺麗にされていて、大切にしてくれてることが一目でわかる。そんなあの子が最近の私の様子を見ていて、見かねて突撃した…なんて、ないとも言えない。大人しいけれど爆発したときにはエネルギーがものすごいのだ。

「なるほど、…ふっ、あははは! そう来たか!」

「笑いごとじゃないんだけど…?!」

腹を抱えて爆笑し始めたかみさまの肩を思わず叩く。

「ああ、いやいや。そんな心配は万が一にもないから安心するといい。琴音とやらは無事だ。俺の友が傍にいる。何かあっても、あいつらが必ず守るさ」

「何かあっても、って…琴音、危ないことに巻き込まれてるんじゃ…」

「悪いやつらじゃない。性格は少々…いやかなり面倒だが、可愛いもんだ。どこのあいつらも揃ってやらかすとろくなことにならないのだけは驚いてるが。いっそ感心すらするぜ」

「それは…」

とても面倒なんじゃないだろうか。

彩の考えていることが伝わったのか、鶴丸は相好を崩した。

「飽きないってのはいいことだ。驚きが溢れてて、心が死ぬ暇がない。俺はあいつらの傍を止まり木に選んでもいいと思う程度には気に入っているのさ。きみ、面倒かどうかで友人を選ぶかい?」

「ううん」

少なくとも、彩は琴音をそう思ったことは一度もない。

「そういうことだ。ああ、煙草が呑みたいんだが」

「ここじゃあ、多分無理。行けるとしたら…」

「上か。なら行くか」

「わたしだけならなんとかなるかもしれないけど…鶴丸さんは…どうかなぁ…」

頭を捻る彩の腕ががっしりとした掌に掴まれる。そのまますたすたと鶴丸は歩き出した。歩幅の違いに自然と早歩きになる。病院の廊下は慌ただしかった。機械の音、人が混乱している声。

「俺は仕事に戻らないと」

「待ってください、先生の許可が出ないと無理です」

「ならその先生とやらを呼んでくれ、俺は何ともないんだ」

彩と同じ服を着た壮年の男性が、年若い看護師と言い争っている。他にも「こちらも目を覚ましました!」

「わたし…どうしてここにいるんですか?!」と声が飛び交っている。誰も、こんなにも目立つ鶴丸と部屋を離れる彩に気を止めない。ちょうど来ていたエレベーターまでなんなく乗り込み、最上階へと浮上する。

「…どうして…?」

「考えるより生むが易し、と言うじゃないか。屋上か…わくわくするなぁ?」

白いかみさまは、にこにこと小学生の男子が浮かべるような表情を浮かべていた。

 

それなりに高さのある屋上には人の子ひとりいなかった。古めかしい金網のフェンスが背丈の2倍ほどの高さで立てられている。

「おぉー! なかなかにいい景色じゃないか! あそこに見えるあれは何だ?!」

「たぶん、六本木ヒ●ズ」

「あれは?」

「東●タワーかな…?」

豆粒のようなそれらを鶴丸は瞳を眇めて見た。

「…確かに此処からはよく見える。高い建物が少ないのか」

「確かこのあたりは、高い建物を建てちゃいけないってなってるって聞いたことがある」

「好都合だな」

「鶴丸さん、煙草は?」

「ん? ああ、ちょうど今葉を切らしてたのを思い出した。刻み煙草派でな」

「神様にも煙草の派閥ってあるの?」

「そりゃああるさ。煙草の側から嫌われる場合も多々ある。直近は煙が出ないものもあるんだろう?」

「電子煙草だね」

「便利な世の中になったもんだ。恋文のやりとりもずっと速く楽になったんじゃないのかい」

「そうでもないよ。誤解を生んだり、気持ちが見えなくなったりする」

見えないもののほうが多いくらいだ。先輩と、自分みたいに。

「あんまり思い悩みすぎると、鬼になるぜ」

「ええ…?」

「きみはそういうものになるなよ。過ぎた感情は夜叉にも鬼にもひとを変える。それが招くのは大概不幸な結末だ。そんでもって大体俺たちみたいな刃物が使われる。まったく良い迷惑だぜ」

白いかみさまはくつくつと笑い、月の色の目を細めた。彩は己が見ていたものがわからなくなる。鶴丸国永がぐっと歳老いたように感じられた。若木だと思って見ていた木が何百年も経った老松であったことに気付かされたような感覚。語られているのは彩には理解できない理だった。明らかに異質な壁が彩と鶴丸とを隔てている。

「そういうものなの?」

「ひとの子には俺たちの声は聞こえない。ごくまれに斬らないことを徹底できるやつもいるが、そんな奇跡は何度も起こせない。物事の時機ってのは俺たちにも何ともできない御業だからな」

「神様なのに?」

「きみたちの先生も教科に別れているように、専門が違う。俺たちは斬ることが本分だ」

月色の瞳孔が獣のように開かれた。蛇に睨まれた蛙のように、息が詰まる。

「主の敵、俺たちの本能を侵す敵を屠る。俺たちはそのためにこの身を得た」

そしてそれはきみじゃない、と肩を叩かれる。その時初めて、彩は息をするのを忘れていたことに気付いた。

背筋が冷たくなる。本当にこのひとは神様なのかもしれない。この神さまは、氷山と同じなのかもしれない、と。

不意に鶴丸が彩を背に庇い、片足を引いて半身を取る。いつ抜いたのか正眼に刀を構えていた。

「下がってな」

赤い稲光が地響きとともに病院の廊下に突き立つ。黒い靄が舞った後に、無数の何かが姿を表した。

黒く、暗く、赤い目だけが爛々と幽鬼の顔に輝いている。思わず込み上げてくる気持ち悪さと背筋を這い上がる寒気に口元を抑えた。あんなの、ゾンビ映画の中くらいでしか見たことがない。ばけものたちが鶴丸を認めてざわめいた。

「それが…あれ?」

「そうだ。俺たちは、きみらが人生を交差し、流れとなって大河を成した先にいる。道半ばに散ったいのちも、最後まで生の意味がわからず天寿を全うしたいのちも、人を踏みにじって栄華を手に入れたいのちも。すべてそのままに、歴史として守るのが使命だ」

「…難しい、話だね。どちらに傾いてもいけないんでしょう?」

理は違えども、この僅かなやり取りの間に感じ取れたことがある。鶴丸国永という存在はひとと同じ心も持ち合わせているということだ。己は刀だからと割り切れるものだろうか。

「…ここに来た甲斐はあったな」

「鶴丸さん?」

「きみが仮の主で良かった、という話さ」

「…え?」

「俺たちも流石に主から離れて長くは活動できない。特に人目の多いこの時代ではな。そこで俺は、きみを仮の主に選んだ」

「いつ?」

「名前を呼んだじゃないか」

「あれだけで?!」

「驚いたか? 政府の職員の努力の賜物だ。ここは褒めてやるところだぞ?」

「努力の方向性…」

「…と。お喋りもここまでだ。目を瞑って、十数えてな」

幼子をあやすように優しい声が掛けられる。

頭を振った彩に鶴丸は頭を撫でた。仕方のない子だ、と言外に聞こえる。

鶴丸の友が琴音の傍にいるということは、琴音もこの意味の分からない化け物と向き合っているということだった。

鶴丸は斬ることが本分だと言った。なら斬れるのだろう。見ておかなければならない気がする。鶴丸国永という神さまの、その姿を。

「この時代の主も見ている。恥じない活躍をしないとな。さあて、大舞台の始まりだ!」

見栄を張った鶴丸は一飛びで数メートル離れた敵の懐に飛び込んでいた。いつ抜かれたかわからない刃が両断する。速い。

「一…」

返す刀で、背後に迫っていた空飛ぶ敵を斬り落とす。

「二…」

右横から飛び込んできた敵の袈裟懸けを紙一重で避け、踵を落とす。

「三…」

その足を更に踏み込み、空を舞った。同士討ちをした怪物たちの体が地面に着くころ、天目掛けて繰り出された槍の穂先を弾いて柄を滑りながら回転斬りを決める。目を逸らさず立ち向かって行く背。怖くはないのだろうか。

「四…」

「いいねえ、今のは驚いた! 今度はこっちの番だな!」

敵の霧散を隠れ蓑に繰り出された刀を避けそこねて頬が浅く斬れるも、神さまはかえって楽しそうに笑った。子どもが気に入りの玩具を見つけたような無邪気さがある。

「五…」

彩のカウントに合わせ、白い体が低く沈み込む。

四方から致命傷を狙った刃が何十にも繰り出された。

だがそれは鶴丸の速さには及ばない。

「六…」

「後ろだぜ」

敵円陣の一部がごっそりと消え失せる。白い羽織が舞って、崩れていない円陣の一角から幾つもの首が飛んだ。

「七…」

美しい舞を見ているようだった。

鶴丸が動くたび、敵が斬り伏せられていく。数はもう初めにいた三分の一しかいない。

「八…」

ぽつりと地面に液体が落ちる音がする。鶴丸も無傷ではなかった。点々と白い衣装に不揃いな牡丹の花が咲いている。またしても背を狙った攻撃に、鶴丸の瞳が細められた。

「相手をしてほしいなら、もう少し工夫してくれ。驚きがない」

「九…」

一際大きな刀を振りかぶった敵の前に鶴丸はふわりと降り立った。避けようともせず、刀の血を拭い眼前で鞘に収め始める。ありえない動作に胸がざわめく。

鶴丸さん、危ない。やられちゃうよ。

納刀の動作は止まらない。鶴丸には勝算があるのだろう。

息を吸った。

重たい刃が勢いをつけ振り下ろされる。刃が鶴丸の髪に触れる、そのとき。

空が一際激しく輝く。

黒雲が一息に晴れ、金色が満ちた。雲によってできた光の柱が何本も空高く伸びていく。

「…十」

チン、と涼やかな収めの音が空間に静かに響く。

その音を皮切りに敵の刀と胴が斬られた面に沿ってずるりと落ちた。地面に落ちる前にほろほろと崩れて見えなくなる。ところどころを紅く染め上げながら、鶴丸は刀を肩に担いだ。瞳と同じ色の晴れ渡った空を見上げる。彩もつられて追った。いつもと変わりない夕暮れだ。

「…この特命調査もこれで終わりか」

もう敵は残っていない。

風に乗って桜の花びらが漂い始めた。

彩と目があった鶴丸は初めて会ったときと同じ優しい微笑みを浮かべる。この起きたまま見る夢の終わりが近づいていた。

「きみの友が、やってくれたようだな」

「…やっぱり琴音を危ない目にあわせていたんじゃない」

前言撤回。この神さま、息をするように誤魔化してしかもそれを悟られない、一番厄介なタイプだ。

「そうかい?」

「怪我、してないといいけど…」

「それはないさ」

「鶴丸さんの友だちがいるから?」

「…あれはなあ。強いが真面目で不器用がすぎる。自分の傷よりも他人を庇うようなやつらだぜ。多かれ少なかれ、三日月宗近と山姥切国広ってやつはそうなんだろうさ」

鶴丸の語尾が僅かに揺れた。先程まで場を支配していた圧は搔き消え、白い羽織が風に所在なげにはためく。

彩には鶴丸の所在なさがどこから来ているのかわかるような気がした。今の彩にはとても覚えのある感情。寂しさに匂いがあるなら、きっとそれだった。

「…喧嘩でもした?」

「いや? させてももらえなかったからな」

「文句を言ってやりたいとかは」

「いつか引きずり出してやるつもりではいるから、その時まで預けておくさ。きみこそどうなんだい」

「…まだ、良くわからないよ」

ありえない驚きの連続で悲しみは少し薄らいだ気はする、と零せば、相手は破顔した。

「良いことじゃないか」

「え?」

「少なくともきみの心は死んでいない。俺と話したこの記憶がなくなっても、何かは残るさ」

鶴丸の輪郭の先に景色が淡く透けた。もう時間がない。

「…もう行くの?」

「そうだな。もうここに用はない」

あまりにあっさりとした物言いに思わず上背を見つめた。ただお喋りをしていただけで長らく共に居た気の置けない友人のような気がする。こちらの目線に気づいて鶴丸は屈託なく笑う。

「きみらが思うがままに紡いだ明日の明日、そのまた先でなら、会えるんじゃないか」

何でもないことのように言ってくれる。

人間だって大変なのだ。食べて、動いて、息をして、恋をして。それに振り回されながら、いのちを燃やして走っている。まっとうするのだって楽じゃない。

それでも。それを見守り守るのがこんな存在なら。

「また、どこかで」

現れたときと同じ閃光が走った。強い風が吹いて花嵐に鶴丸の姿が覆い隠される。

風が止んだとき、そこには何もなかった。戦いのあとも何もかも。

「…ありがとう、神様」

ひらり、と。

斬られた桜の花びらが彩の掌に落ちてきた。